先月からの続きです。 写真の場所は南三陸町歌津の田ノ浦と言う所で、梶原神社跡とも言います。後にこの地に八幡神社がありましたが3・11の津波で流されました。
それで歌津に下向した梶原神社さん達の経緯が不明なのですが、唯一の手掛かりが気仙沼市唐桑町の「早馬神社」の始祖が、梶原ノ景時の兄だったというルーツです。
この人は兄にもかかわらず、梶原家を嗣がず熱田神宮の宮司になり、後に唐桑に移住し早馬神社を創建したそうです。多分、長子相続なので景時が正妻系で兄は側室系かも知れません。
それが梶原館跡とも呼ばれ梶原ノ景時(中村獅童)にゆかりがあるのではないかと、私なりに思い親しみを持ち調査研究してきた所です。更に地域を代表する神社でもありました。不思議な縁の梶原館の話です。
しかし最近まで津波の影響で神社の社務所なども、跡形も無く流され鳥居も傾いたままになり、誰も再建してくれる人もなく、廃れていくのかなぁ、と半分心を痛めていました。ところが昨年あたりに鳥居だけでも復元して下さる方がいました。
なので下記の通り『文豪三浦二三男のふる里を周遊する旅』の一つ「田ノ浦梶原館神社跡」を構成しているので復興の励みに、と今月から取り上げることにしました。実はこの地は今年亡くなった母、八千代の生まれ故郷で、私にとっては一方ならぬ思入れのある場所です。
また、歌中の一つ下のJ子さんの生まれた所とかで、世が代であらばあやうく記念碑が立つところです。(笑)
と言うことで御縁の薄からぬ田ノ浦の梶原さんですが、今回ぜひ書き残しておきたい話しがニ~三ありまして、少し長くなりますが記録しておきたいと思います。たしか同級生の梶原仁君のルーツでもあるはずです。
そもそも私が梶原神社と言っていますが、そのルーツらしい話しは結構複雑です。まず梶原氏は先祖を辿ると三浦と同じ鎌倉武士です。始祖の皇親が桓武天皇でその孫の代の高望王の子供が臣籍降下して、次第に関東に住み始めました。その三男か五男「平ノ良文」が、末弟なので遅くに京都から坂東に下り村岡五郎❈と名乗ります。
❈武蔵ノ国に村岡郷と言う地名があったらしい。
良文は初の東下リのさい武運があったらしく923年醍醐天皇の代に「相模国で反乱を起こした賊を討伐せよ」との勅命で坂東❈に下り、これが良文の初関東入りとなり、「相模国鎌倉郡藤沢郷」現在の神奈川県藤沢駅辺りで賊徒を討伐して初の武功を挙げたと言うことです。
❈坂東とは箱根八里で有名な箱根の関所辺りのことで、登下り約三十ニキロの嶮しい山道で現在も駅伝のコースになる山坂。その往復路の坂道の東側の関東領域を坂の東で「坂東」と言った。大井川もあり徳川幕府以前から難所で仕方なく、陸路は諦めて江戸や三浦、小田原から静岡、名古屋、大阪までの間は海路が発達しました。
そのためこの間を「東海道」と呼び「街」ではなく「海」の字を当た。陸路で運べない物資は海運にした。良文はそれらの平定の功績で関東の武蔵、相模、下総の領地を拝領してその子たちに跡を嗣がせ「坂東八平氏」の祖を作った。その内の梶原氏は鎌倉景正系統で、寒川が本拠地で鎌倉にも邸宅があり梶原郷にも住んだらしい。
一方、上総などの上国は平ノ将門とか良文の兄国香系統の祖先が、これより先に着任しています。それが後の千葉氏らの先祖です。しかし良文の叔父にあたる将門は935~940年に「平ノ将門の乱」を起こしますが、良文は組することなく、朝廷側に付き「将門が討たれた」との一報を兵部省に伝えたのは良文といわれるとかです。
これが大まかな三浦氏と梶原氏やさらに千葉氏らの「源平ノ合戦」の前の関東や鎌倉での関係性・繋がりです。
もとをただせば、三浦も梶原も千葉も高望王を共通の父親とする従兄弟ハトコです。
しかし、その従兄弟ハトコが後に争いに巻き込まれるのは、悲しかな「聖書」にある「カインの末裔」そのものなのです。原因は聖書にもあるように生きて行くのに食べるためです。その食べるための事件なら、今、里山から市街地を徘徊する「熊」さんと何らかわらずです。そのためイエスは神の教えに従えとさとしたのです。
その教えに従わないロシア熊のバカプーチャリンコはいまだこりず、国が崩壊するまでやる気です。アホの極みで熊以下です。この四年に及ばんとする侵略戦争で、ウクライナはおろか、全人類に呪われ未来永劫祟られて、そのロシア人という呼び名をさえも、某半島人のように自ら返上したくなるはずです。ロスケ→ソ連→ロスケ2
その例としてある地域も北何とかいう地名を自らが嫌い、南北統一して「高麗国」にしょうと目論みましたが、核兵器とやらを持って居る間はマカリナランと米国に釘を刺され頓挫して終わりました。南もメンタルは同じで、早々に韓国と名称を変えました。
この心理的メカニズムは某仲国も同じで、徒ずらに台湾に侵攻したら、そのメンツを誇る仲国人が、世界中から今でも嫌われているのに、ますます「総好カン🐙」・スカタンを喰らって、その自慢の仲国人を名乗るのを辞めたくなりますよ。
ついでに今回、ロシアのプロパガンダもしくはその銭コを貰い、この戦いを途中から自分らもロシアには不利と知った上で、徒ずらに増長させたマスコミ関係者や、論評をした御仁達も「悔い改め」なければ、この戦役で倒れたピーポーの怨みと呪いを受け未来永劫祟られますよ。
私の大好きな脳科学者の中野信子さんによると呪いはあるそうです。へんなところで思わず告白してしまいましたが(笑)聖書にも呪いの話しは良く出てきます。そして、呪いを避ける方法は聖書を読むことだそうです。
で、呪った方も相手が聖書を読み気にせずば、呪い祟りはブーメランように、本人に戻り体調を崩すそうです。
〇「他人(ヒト)を呪わば穴二つ」とかです。と言う事で「呪」は「悪口」や「原子爆弾」と並んで人類が発明し人を攻撃する原子(始)的な三大最悪最底兵器と言われます。ただし、どれもマトモには使えず取扱注意で、不用意に使廻せば、たちまち身を滅ぼし自滅するという、自虐的なオチが笑える代物の最終兵器でもあります。
ここで話題を変え人気の梶原ノ景時さんに自己紹介をお願いしましょう。それでは梶原さん張り切ってどうぞ!「ええ、私くしこと只今紹介にあずかりました拙者、景時の先祖は元々『大庭厨』と申しまして、722年に朝命により詔せられた『百万町歩開墾事業』のさい都から関東に送られた役人の子孫で鎌倉権五郎と思われます」
そのため源平ノ合戦の初期には本家筋の大庭ノ景親が、平ノ清盛の命令により頼朝追討の側に付きました。大庭景親が「大庭厨」を管理し伊勢神宮に納税していた関係です。そんな経緯で伊勢平氏の清盛と昵懇だったからです。名乗りにも「景」の文字が通字になっていて、これは三浦も義明・義澄・義村・義種と同じ家伝の証です。
しかし、頼朝が石橋山の洞窟に隠れた際、「これは何んか違うなぁ」と閃きを感じ安房に逃しました。
「そこから、この景時の運が開花して、頼朝公の側近No.1になったのが、歴史の教科書にある通りです」
さらに良い事があればマイナスもありで、「鎌倉殿の13人」の人事考査などで恨みを買い、軍監で参戦した源平の最終決戦「屋島ノ戦い」の前夜の軍議で発っした「梶原ノ逆櫓」などの戦略が義経の部将らに、海に面して居ない寒川辺りの育ちを揶揄され、舟の扱も談話のネタにされたり、仲間内で一番先に失脚してしまいました。
「一族は寒川に逗まりましたが一部は兄の縁で、歌津に下った系統も居たかも知れません」と、言うような経緯です。(推測です)
さらに歌津の梶原館跡なのですが、じつはこの鳥居の後方にもう一つの鳥居があり、本来はそちらが屋敷跡だったようです。それが何時の時代か不明ですが、ここから約二百m南の田茂川(水尻)松之助氏の家の前の橋を渡った辺りの下戸(すたんど)と読む、にあった「八幡神社」が、火事に遭い当地に移転してきたとかです。
そして、田ノ浦に移住した梶原さんも、室町以降あたりにまで元々山城だった梶原館を、中世も終えたので社を置き、下に降りて八幡神社の神主になったようです。それで書き残しておきたい話の一つは、先の「カインの末裔」の話と二つ目がある時、景時の肖像画を見ると、四学級で一緒だった梶原仁君にそっくりだったことです。
で、三つ目が母の物語と私の幼少時代が交差する、梶原氏が絡むご縁と、文豪になるための時の心象風景です。
梶原神社跡はこれまでの話のごとく流されましたが、田ノ浦の八幡神社は、伊里前の三嶋神社と並ぶ歌津を代表する神社でした。その神主を長く務められたのが、通称、「梶原校長」と呼ばれた梶原良雄さんでした。
この方は八幡神社の神主に生まれましたが、戦前の宮城師範学校(現宮城教育大学)を卒業して、歌津中学校の校歌を作詞❈した方でもありました。ここで戦前の師範学校の性質を多少述べますと、信じられぬと思いますが実は太平洋戦争の前後から師範学校は陸軍士官学校、海軍兵学校と並ぶ、日本三大軍事学校の位置にいました。
❈歌津中学校の校歌
「太陽は輝けリ 本吉の岸 友あり我ら進む太平洋 文化の光燦爛と 船は沖へ進む 歌津 歌津 歌津中学」
師範学校が創設された明治時代はその傾向は無かったのですが、後に×―××・×ー××で密約❈をしたとされる岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎の、昭和陸軍内での生残りを賭けた俗称三羽ガラスに+東條英機が加わり、一気に軍事色の強い学校に急激に変られました。いわば国家総動員体制の軍国主義国家に塗り替えるためです。
❈1921年10月27日ドイツの温泉保養地に三人は集合。このドイツ及び欧州遊学+駐在武官になった陸軍将校は森鷗外❈を始め大体がドイツ陸軍のハ二ートラップに引掛かり、後にドイツの言いなりになり、三国同盟を結んだ。教育界はその強烈な反動と反発から戦後急速にインテリゲンチャ(知識人)の象徴の日教組を発足させた。
❈ 森鷗外の代表作『舞姫』はドイツ人女性主人公との関係が創作のモチーフになっている。更に彼ら永田鉄山と小畑敏四郎の帰国後の一夕会や、橋本欣五郎らの桜会等の会合が最終的に陸軍中堅将校らの、満洲事変での謀略など計画的かつ、確信的な策謀を成功させた。(天皇や政府を無視した下剋上とクーデターの予行❈だった)
❈更にニ.ニ六事件を奇貨として、朝日等マスコミ世論も恭順させ、引続き日米開戦まで政情を導き暴走した。
そんな時代背景のなか梶原良雄さんは師範学校を卒業して新設の「歌津青年学校」=後の歌津中学校の校長になりました。それで長く「梶原校長さん」と呼ばれたのです。学校は1935年発足の実業学校の制度だったそうですが、ほとんど軍事教練の学校だった、と自分が歌中在学中に聞かされました。
今年亡くなった母には、早くに亡くなった長男を始め、二郎兄んや、忠治兄んや、眞一兄んやと四人の兄が居たそうです。そして軍国華やかなりし頃、ちょうど中の兄の忠治兄んやが徴兵検査に合格し出征の時がきました。
すると、戦況が芳しくない国は召集猶予を受けていた更に上の二郎兄んやにもどう言う訳か動員を掛けました。
その頃、母の直ぐ上の兄、眞一兄んやは梶原校長の歌津青年学校に在学中でした。ここで梶原校長にも国の指令が来て「一人でも多くの兵隊を送れ」と、学校に通達があったそうです。そして、それを後年に私が調査したところ、それらは校長さん達の人事考課の点数になっていて、一人でも多くの兵隊を送れば出世する制度でした。
この頃に東條英機によって特別志願制度・学徒動員が構築されていました。更には二十歳未満の徴兵検査前の学生・生徒にも一年志願制度があり、梶原校長は青年学校でも生徒に志願するよう盛んに奨めたようです。すると母の兄眞一兄んやも「自分も志願する」と同級生の佐藤三千子❈さんの父直藏先生らと共に志願したそうです。
❈ 劇画エヴァンゲリオン=『残酷な天使のテーゼ』のテーマソングの作曲者・佐藤英敏さんのお姉さんです。さらに昨年の八月に歌津での化石発見発掘の功績で、自分の名前の直哉がラテン語の「パリシカリス・ナオヤイ」と、命名の栄誉を頂いた高橋直哉さんと(再従弟)ハトコです。
さて、十八歳の子供に「志願」すると言われて困ったのは祖父母です。なにせ、上の子二人が同時に応召ですからたまりません。一応このころ祖母は地域の国防婦人会の会長の役をして居たそうです。なので反対は相当に複雑な思いだったのでしょう。そして志願には両親の承諾の印鑑が必要で、ここが兵隊の家系の辛いところです。
すると梶原校長は「親が承諾しなければ、ハンガーストライキをしろ」と言ったとか「それで眞一兄んやは十日以上も食事もせず、寝込んだ」と母の証言です。結局、両親=祖父母が折れ、二郎兄んや、忠治兄んや、慎一兄んやとも三人は揃って、伊里前の「おみな茶屋」の前で盛大な壮行会を受け、見送られて大陸に出征しました。
そして、終戦の半年前の昭和十九年二月に、母の最愛の兄の眞一兄んやは、戦死しました。この前後に中国大陸に居た父捨治郎に東京の大本営に転勤命令があり、さらに婚期も遅れ、間もなく将校待遇の、営外勤務となるので、嫁さん探しとなりましたが、陸軍も海軍も将校・士官は天皇の裁可がなければ結婚が出来ないのです。
するとここで、また梶原校長の出番で、役場と梶原校長に、だれが相応しい相手なのか、と嫁候補の娘探しと身辺調査の指示が来て、それならば母親が息子三人も同時に出征させている、軍国の母の娘が三国一相応しいと、母八千代に白羽の矢が立ち決定したという話しです。
もう少し続きがあります。まだ人気の梶原先生と私のことで、思い出深い話しもあり出番があるのです。やがて戦争も終わり、梶原校長は公職追放となりました。眞一兄んやは還らぬ人となり、二郎兄んやは忠治兄んやと共に生還しましたが、戦場での消耗が激しく、祖母の懸命の尽力の甲斐もなく、早くに亡くなったとのことです。
祖母は期待と愛情をこめていたので、落胆したようです。そのため私の兄が生まれ代わりと思えたのか、私より兄を気にかけていたようです。さらに忠治伯父さんは負傷しながらも復員して、後に歌津中学校の数学の先生になりました。そして母は私が眞一兄んや❈の生まれ代わりだと思っていたようです。
❈「オフクロ、眞一です あの時は・・・今になって、どれだけ心配と、心を痛めたことか済みませんでした」