◎                     映画脚本「海辺の街」                       ◎

生きるとは「愛こそすべて」と知ることだった
生きるとは「愛こそすべて」と知ることだった

この脚本は原作:小説『Don・Vito 青春記』を映画

『海辺の街』としてハリウッドの脚本家コミュニティ

THE BLACK LEST】に掲載したものである

 

【SYNOPSIS】あらすじ(導入部)

かつて1971年に世界的大発見の「歌津魚竜」の発掘に立ち会った、地学/生物学者の高山文彦は機械工学者の伊藤孝治博士と来たるべき「宮城県沖地震」について語りあっていた。

 

そしてその際の津波の被害想定を繰り返し行なっていた。そんなやさきに3・11の地震津波に襲われた。そのとき車で市内を走行中の伊藤博士の妻陽子さんは、かつて主人から言われていた、避難想定順路に従い走り抜て難を逃れた。

 

気仙沼市消防所長の佐藤信悦氏も想定される宮城県沖地震のことをずっと気に掛ていた。そんな折3・11が発生した。妻は安全と思われていた市内の病院に勤めていた。気にはなったが三日間連続で不眠不休の救助にあたり家族の事は後回しになった。

 

南三陸町役場に勤務する、三浦毅は防災課に勤務していた。時間を作って母校の歌津中学校で野球部の指導をするのが生き甲斐だった。この野球部のOBだった。妻も幼なじみで同級生だった。

 

そして彼女は毎夜彼の夢をみるようになって、夫はいつも自分の心の中にいることを感じられようになった。

 

人を笑わせるのがお得意の漁師、伊達と富沢は今日は漁が休みで、偶然、気仙沼でロケ中だったテレビ局のお笑い番組にゲストで出演していた。

 

二人は唐突に地震津波に遭い局の車で安婆山に避難して助かった。富沢は自分の船を沖出しょうとしたが伊達に止められれて命拾いした。皆それぞれの運命と対峙して生死の分岐点にいた。3・11の地震津波災害はその自然の大きな力で人々の人生を大きくゆさぶった。

 

以下脚本は【THE BLACK LIST】に掲載

三浦毅君が愛した歌津中学校野球部のグランド  撮影 小野盛幸
三浦毅君が愛した歌津中学校野球部のグランド 撮影 小野盛幸
出会いがあり別れがあり心もやした青春の日々
出会いがあり別れがあり心もやした青春の日々
気仙沼第一聖書パプティト教会
気仙沼第一聖書パプティト教会

教会は以前、もっと海辺にあって、この震災で消失しました。しかし峯岸神父さんや、多くの方のご尽力により、現在地に再建することが出来ました。

 

3・11後の三陸の人々に何が必要かと考える高山文彦は「教会」と結論した。すると復興4年目の春、以前お付合はあったが、連絡が着けられず困っていた人の二軒隣に新しい教会を見つけた。その時、高山は神の意思を感じた。それから教会を訪るようになった。

『北国の街』
『北国の街』

そこには粋でおしゃれで華やかな、限りない青春の日々があった。

 

いましも学校では映画『高原のお嬢さん』の上映が始まろうとしていた。

 

高山文彦は姉を迎かえに本吉駅に向かわなければならなかった。

 

帰って来て屋体に戻ると二本目の上映『星のフラメンコ』が始るところだった。

 

『港町ブルース』
『港町ブルース』

♪背伸びして見る海峡を〜今日も汽笛が遠ざかる♪

 

気仙沼港は古から極東太平洋の親潮と黒潮の潮目となる、金華山・三陸沖の良好な漁場をかかえる世界有数の漁獲高をほこる港でした。

 

鰹、マグロ、北洋サマス、サンマ、近海物・巻き網、遠洋トロール、と全国の漁船の寄港地でした。当時、東洋一の漁港と呼ばれました。

 

森進一さんのこんな歌が流行った頃が全盛期でした。歌好きの多くの人達が♪気仙沼〜のフレイズが自慢で大得意になって歌っていました。

 

その後200海里の漁業規制以降、それでも各港の養殖漁業などで、その力を発揮してきました。そんなやさきに巨大地震・巨大津波に見舞われたのです。


そして三陸地方は幾多の困難を乗り越え「復興のテーマパーク」として「復活の朝」を迎え歩みはじめた。

       お問い合わせ ☆ 三浦二三男出版記念会