◎                   映画脚本「アニー・ブゼル」                   ◎

この脚本は原作:小説『アニー・ブゼル聖なる影』をハリウッドの脚本家コミュニティ

THE BLACK LIST】に掲載したものである

 

【SYNOPSIS】あらすじ

1930年26歳になったアニー・ブゼルはキリスト教系学校の教師を終え婚約者のジョニーに「三年後には貴方も来日して結婚しましょう」と二人でアジアの伝導の旅をする事を約束をしてアメリカ・ネブラスカ州を後に日本に来た。

 

横浜に着くと教会関係者から仙台に開学したばかりの女学校に聖書科目のミッションがあると案内され三年間の契約で来仙した。

 

やがて当時の第二高等学校の学生・吉野作造・内ケ先作三郎・小山東助・島地雷夢・中島力三郎と出会い、独立系の「仙台バイブルクラス」に発展させることが出来た。

 

そして多くの若者に聖書を伝えるとはできたが、三年後に婚約者は日本に来ることはなかった。ブゼル先生は単身で学校経営と教会などでの聖書の伝導をすることが生涯のミッションだと決意した。

 

 

後に東大に進んだ吉野作造(旧古川市出身)・内ケ崎作三郎(富谷市出身)・小山東助(気仙沼市出身)等によって「東大新人会」が立ち上げられて、日本に自由主義の萌芽「大正デモクラシー」・「民本主義」の思想を打ち立てることが出来た。(それまで自由主義・民主主義を唱える事はタブーだった)

 

しかし、そこに軍部の圧力があり天皇は「現人神」か?の上杉慎吉の「天皇主権説」や、それとも「陸海軍の統率者及び行政機関の一部」なのか?と言う、美濃部達吉らの「天皇機関説」という国家法人説とで争われ、次第に陸軍の力に押され国は軍国主義に傾く世相が現れてくる※

 

※この時、陸軍はすべての命令は天皇の命令だとした。それ故に終戦後に天皇の責任の所在が大問題になった。

 

日中戦争は未だ解決せず、見通しが立ぬなか軍部中堅将校武藤章らは、自らの出世欲と手柄功名の為、対中国との紛争をこじらせた。

 

更に武藤はソ連に導かれて日米開戦へと、事態を抜き差しならぬ方向へと転落させていった。そして唯一佐官級に行った出鱈目な軍政と捕虜虐待の罪で、A級戦犯に問われ巣鴨で処刑された。また、ゾルゲに工作され近衛文麿や尾崎秀美らと同じく日本の情報を逐一細大漏らさずソ連共産党に通じていた。(隠れ共産主義者だった)

  

終戦後、日本に進駐したマッカーサー等は、この国は軍国主義に固まり民主主義は無いものと思い込んでいた。しかし、新憲法を作るにあたり吉野等の論文を読み、この国は十二分にデモクラシーに耐えられると判断して、戦後の「新日本国憲法」を策定した。ここにクリスチャンで教育者としてのアニー・ブゼルの生涯が結実した。

 

以下脚本は 【THE BLACK LIST】に掲載

初期の尚絅女学院

明治33年6月15日吉野作造・内ケ先作三郎・小山東助・島地雷夢・中島力三郎および仙台バイブルクラスの学生と窓辺に写るアニー先生

ブゼル先生との送別会(中列右から4人目が吉野)


 

アニー・ブゼルが婚約者と約束を交わしたであろうと思われる当時のネブラスカ州での一般的なコロニアル風な建物/イメージ:参照としての東北学院大学シップル館の写真の所に尚絅の学長としても何度も訪れていたと記録にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本で初めてフギァスケートを始めたと言われる仙台城の五色沼/流行らせたのは東北学院の米国人宣教師で尚絅の女教師やアニーさんたちも楽しんでいたらしい。やがて二高生らにも広がったようです。そして、荒川静さんや羽生結弦さんにつながる事になる。

 

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