◎     令和 Deep Japan 歌集  『峯    籏』 旅の謳歌集 日常雑詠       ◎

 

令和歌集『峯 旗の意味は地名です。歌中に入学すると所在地が峰畑となってました。心地良い地名だなと思いいつか使おうと考えてました。

 

ちなみに、なんて良い地名なんだろうと感心したのが「岩月宝ヶ沢」という住所です。手紙の宛名書きするとき笑みが絶えませんでした。これは現在の「気仙沼第一パプティスト教会」の所在地でもあります。

      

久びさに  心やすけき  日の続き  初恋のひと  想いめぐらす

 

小夜ふけて  家路を急ぐ  サンモール  パッヘルベルの  カノンの聞こゆ

 

咲く桜(はな)の  枝(こ)の間に見ゆる  青空の  遠き輝き  胸にしみ入る

 

主のなき  家鴨(アヒル)が数羽  遊びおり  逆波の立つ  広瀬川原に

 

 

鳳仙花 転し(まろばし)遊ぶ  掌(たなごころ) 嫋を(たを)つまみれば  捩れ(ねじれ)弾けぬ 

 

風にゆれ 色とりどりに  咲く菊は ものの哀れを  思いいずかも

 

函館の  大森浜に  立ち見れば  流浪の啄木  想い偲ばる 

 

新(あら)たまの  統率(すめろぎ)の御代(みよ)  至りきぬ  令和の春も  ともに巡りて

 

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旧琵琶首丁から花壇・瑞鳳殿を望む
旧琵琶首丁から花壇・瑞鳳殿を望む

歌を作る動機など

 

詩歌に興味を持ったのは小学四年の頃です。二ツ上の兄が授業で俳句の作り方を習ったとかで、作法を教えてくれました。その時、自分も試みに作ってみると、次から次へといくらでも出来るので面白くなったのがきっかけでした。

 

本格的な和歌研究の入り口は啄木でした。高校のころ『一握の砂』を読んで、その率直で新鮮な青春詠歌に心引かれました。そしてさらに高みには巨峰のようにそびえる茂吉がいて、子規にたどりつき「写生論」から万葉研究に至りました。

 

※実はこのころ遠くの女子高生と文通をしていて、啄木の歌をもとに相聞歌でやり取りをしてました。(関係各位ファンだった方々に内緒にしてました)お詫び致します。平に平に御容赦をです「今さらジロー」ですがお許し下さい。

 

また、文学の師と仰いだ阿川先生がやはり茂吉を尊敬していたので自分の感性に揺るぎないものを持ちました。

 

長じて貯金局に入るとかつては1200人もの職員がいたそうで、各サークル活動が盛んでした。短歌の会も三社以上もあり、各会からお誘いも受けましたが「檸檬」という結社にお世話になりました。

 

もともと歌会とかにでる時間がなかったので、歌論とかには加わってはいませんでした。しかし、ある人に「君は才能があるからその実力を発揮すべきだ」と盛んにほめられ熱心に勧められて入会したものでした。そして多くの先輩の方々の芸術論を聞くのもとても有意義なことでした。

 

それで、ある年に「久びさに 心やすけき 日の続き 初恋のひと 想いめぐらす」を競作に出しましたら「東北郵政局長賞」を頂き母方の祖母に報告しました。すると祖母も「自分にもそんな思い出がある」と以外な「恋バナ」を聞かされました。そのとき「祖母には祖母の青春があったんだぁ」と思いました。

 

じつはこの歌のモチーフにはある初恋の人との悲しい別れがあったのです。その時の心情を歌にしたものです。場所は以前の家庭裁判所前で大きく市電が90度にカーブした所です。そこから「旧琵琶首丁」(花壇・瑞鳳殿)を望むあたりを散策中でした。その人が結婚したと大分あとになって知ったときの作歌です。

 

ですから結構わたしも悩んだのです・・・どうかこの歌に免じてお許し下さい。

 

古典 万葉集の成り立ち

 

それでは、茂吉でも説き明かせなかった「万葉集」や古典の数々の謎を思い付くままに解説します。わたしの歴史理解もなるべく司馬遼太郎さんや、海音寺潮五郎、松本清張さんが説き明かせなかった部分、解釈の及ばなかった所が基準、出発点となってます。あらかじめ、ご了承下さい。

万葉の意味

 

まず「万葉」とはなんぞやという話しです。もう、すでに茂吉の時代になると万葉という言葉の意味が不明でした。ちなみに茂吉は「マンニョウ」と呼んでいました。

 

そもそも日本の詩歌の始まりは中国から導入した漢詩で、漢字文字を習得するための習字・手習が始まりでした。そのため初期の頃は漢文と共にを学んでいました。理由は「律令制度」を施行するためです。今と同じで中央政府が政令を発っするには文書、文字が必要でした。

 

次にその漢字を創案したのは誰かいうと、中国の春秋戦国時代の「蒼頡」(そうけつ)と言われています。彼は沼地に残ってた鳥の足跡を見て、その足の形に共通している生き物を「鳥」という象形文字に表して、同じことを他の動物や物品にもあてはめ、万人が共通認識出来る漢字を発明したようです。

 

歴史的にはそれ以前にエジプトのヒエログラフの象形文字があり, メソポタミヤでは楔形文字が使れてました。

 

しかし中国では秦の始皇帝が統一国会として発足するまでは漢字も度量衡も、それぞれの地方、地域でバラバラの使用状況でした。その後法律をまとめ発布したのが西暦267年(晋)の「泰始律令」(タイシリツレイ)でした。

 

この頃までアジア地方では統一見解の法律はありませんでした。たとえばこの頃の日本の先住アイヌの方々の法律も、刑法であれば河を越えたら終わり、訴追されませんでした。つまり今のアメリカの州法と同じで、州をまたぐ犯罪はFBIが追いかけてきますが、そのほかの事件は州を越えると他州では問われませんでした。

 

これと同じでかつては利根川の北側、栃木で事件をおこしても、川を越え南の埼玉に逃げると追われることはありませんでした。これがアイヌ時代から近代まで続くこの国の粗法でした。それで国定ノ忠治親分も事件をおこし、永のワラジを履き諸国を逃げ回ってましたが、晩年、また上州の国定村に戻り、ご用となったのです。

 

講談はこの辺を面白可笑しく「股旅もの」とか言ってエンターテイメントにして映画やドラマを作りました。

 

それでは律令とはなにかと言う、おさらいです。

で、律は「法律」で令は中央政権からの「命令」です。学校で習ったように「大化の改新」前後に成立したようです。これを発布した事により、日本の一応の統一国家が、誕生したとの共通認識になってます。

 

次に国家運営となれば税金です。すでにメソポタミヤでは紀元前5000年前に徴税吏が書き残したと思われる楔形文字の粘土板が出土します。日本でも卑弥呼の時代にはあったようですが、公式記録は西暦645年の「公地公民制度」を嚆矢としてます。「班田収受法」ですね。

 

そして年貢を集めるにはどうしても「読み書き算盤」が必要です。そこで公務員を育成しなければなりません。公卿の子弟にはのちに修学院という官立の学校で教えました。遅れて地方でも国分寺や国分尼寺で教えました。そのときに教科書に用いられたのが「千字文」や「漢詩」・「漢籍」・「仏典」です。これが後の寺子屋です。

 

ただ、この頃はまだ日本語・ヤマト言葉を表す文字がなく、漢字の音読みを当て字にしてました。だから、万葉集はすべて漢字表記なのです。ここから万葉カナが産み出されます。これが外来語をカナ書きする発想の元祖です。

 

で、初期の日本の学僧も漢詩習得のため四言詩等を作詩してましたが、やがて、五言絶句、七言絶句となると

とても日本の現象を漢字で表現するのは難しくなってきました。(これは現代の漢籍にかなり造形が深い人でも韻を踏んだり平仄を合わすのが難しい)=だから漢詩人はめったに表れない。

 

また、むしろ国も「何時までも、漢詩でもあるまい」と日本独自の詩型ということで五・七・五・七・七の短歌と五七・五七・五七・七の長歌を奨励し一般民衆も作歌できるよう発展させました。これが和歌です。

 

やがて三世紀に中国が歌謡や民衆歌を集め作った「楽府」を参考に、我が国でも国選の勅撰和歌集を作ろうとなりました。これが「万葉集」編纂の動機です。

 

で、そのとき全国から歌を集めたのが駅逓信・郵便です。その当時は紙の荷札の替わりに木簡を使うことが出来ました。これは現在でも木の枝や短冊に切手を貼れば送達してくれる制度です。これが「葉書」の原形です。

それで今、平城京あたりから、やたら木簡が出土するのはそのためです。 

 

このハガキの原形に現代でも「郵便局の木」と言うのがあります。「タラヨウの木」がこれに認定されてます。これは古くからマジナイや忌み流しに使用してました。使い方はこの木の葉の裏側に釘などで文字を刻むと、黒く長く消えないので、インクと用紙がわりになる故事を踏襲したようです。

 

朝廷はこのようにして全国から募集した、歌書きの木簡や「葉書」を一葉、二葉、三葉と数えて「万葉」と数えたようです。これは三浦氏オリジナルの見解なのであしからずです。これが茂吉でも説き明かせなかった万葉とはなんぞやの一考察でした。

☆              敷島の街道紀行・All road leads to Rome.        ☆

敷島の  大和心を  人問わば 朝日に匂う  山桜かな  本居宣長           すべての道はローマに通ず

司馬さんの作品の中でも、結構、大振りな紀行文「街道をゆく」がありまして、時間のあるとき気軽に読むには最適でした。晴耕雨読の雨で外出がままならないときや、津々と雪の降り積もる日などは、せんべいをかじりながら読むのは至福の時でした。

 

そんな時は、司馬さんの創作意欲や創作態度がうかがい知れて勉強にもなりました。この「敷島の街道紀行」もなるべく小説や物語ならびに学問の外側、無駄話のようなものを綴りたいと思います。おつきあい下さい。

 

あえて「敷島」と名乗ったのは、道は日本からヨーロッパそしてアメリカ「すべての道はローマに通じている」からです。そんな中、時に司馬さんの『街道をゆく』を参考としてふれることがあります。予めご了承下さい。

 

結局、司馬さんも日本とは何か、日本人とはなにかと言うことを知りたくて『街道をゆく』の旅をしたようです。

 

わたしはこれに当時はなかった遺伝子工学、DNAから遡れる考古学などを織り交ぜて、日本の文化と世界史との関わりのようなもの。人類の発展史のようなものを展開したいと思います。

 

 

 

 

 敷島の近畿道をゆかば                  敷島の三陸道をゆかば                  敷島の西海道をゆかば