◎           三浦一族・鎌倉殿の13人ノ系譜         ◎

【秦ノ始皇帝】
【秦ノ始皇帝】

(1):【秦ノ始皇帝】(紀元前259〜紀元前210年) 

 

2022年にNHK大河ドラマで『鎌倉殿の13人』が放映されると多くの方から、三浦氏の歴史が知りたいとの要望がありましたので、お届け致します。

 

歴史は「秦ノ始皇帝」(1)から始まります。またそれ以前はローマ兵と思われます。それは名前のミウラの由来が、イタリアのミュラーから来ていると思われるからです。

 

あの名車、ランボルギーニ・ミュラーです。彼らもイタリアでローマ軍の馬車を製造していたと思われます。

 

このミュラーの車名はスペインのアンダルシア州、セルビア県にあるガナデリア・ミウラという有名な闘牛牧場に由来するそうです。元々馬を飼うゲルマン人でしょう。

 

これが我が家の馬場での馬に関連しています。

 

元のミュラーは古代ケルト語や一時ラテン語でも使われた「鏡」で、英語だとミラーです。偶然のように我国では、鏡が伝来する前は桶に水を張り、化粧するとき前屈み

(屈ガ見)になって見るから「カガミ」水鏡になりました。

 

「秦ノ始皇帝」の先祖はコーカソイドだったという説も根強くあります。発掘すると白人系の遺骨が出たりするからです。たぶん、領地を失ったローマ兵が「シルクロード」を通る、イラン系のキャラバン(隊商)に用心棒として雇われ、キルギス・ウズベキスタン・中国に到来したのでしょう。(途中モンゴル系ロシア人に襲われます)

 

この隊商の末裔が定着したと思われるのが、京都の太秦系の人々や諏訪湖周辺に諏訪大社を祭った人々と思われ、諏訪神社の祭りがユダヤ人の祭りと同じなのです。これもカザフスタン・キルギス・ウズベキスタン・中国から渡ったユダヤ人の失われた10支族の末裔でしょう。キルギスなどには旅の途中に定着したと思われます。

 

キャラバン(隊商)はイラン系ですが、イラン人は元々ペルシャ人と言われ、アラブ人ではなく白人系と言われます。言葉もアラブ語系ではなく、印・欧語系民族と言われ欧米人と同じです。彼らがシルクロードを西からギリシャ・ローマの進んだ文物を※東の中国・日本に運び、帰りに絹織物を買いヨーロッパに運び売りました。

 

※ 奈良の正倉院に残っている御物・国宝がその証です。

 

次に三浦氏は偶然、水鏡の如く水や海に関する仕事をすると上手くいくようです。平安時代後期(三浦ノ為通)の代には相模国三浦郡と対岸の房総半島の富津や館山などの、浦賀水道を領地にしていた。横須賀や三浦郡三崎港で海の「関守」です。いまで言う税関吏をしていたようです。(海族・三浦水軍)だったの言い伝えもあります※

 

※ 具体的には沖を不審船(海賊船)などが通ると、船を漕ぎ出し臨検をし、怪しいと物資を徴発する。無理をし強引に奪うと逆に「海賊」と呼ばれることもある(笑う)。江戸時代に名足に派遣された「最知玄蕃」さんはこれをして不評だったそうです※。なんでも名足沖を通過する時は帆を半分に下げないと臨検されたそうです。

 

※ 昭和50年代に最知さんの井戸近辺に宝物があると発掘騒ぎになり、この時のお宝は玄蕃さんが沖前を通行する船から没収して隠した物ではないか。と言われたそうです。作兵衞叔父さんの話しです。ただ、亡くなった最知和行さんは兄の同級生で友人なのであまり悪く言えません(笑)

 

そして、和行さんは千葉悦子さんのご主人でしたし、最知安子さんは私の親友です。どうかエピソードのひとつなので悪く受けとらいないでください。最知玄蕃さんは気仙沼の最知から異動して来た、伊達藩の役人で今なら名足駐在所員です。最知安子さんの家は中山の「検討家」と言われ裁判官です。ルーツは玄蕃さんと同じです。

 

 

江戸湾入口や太平洋、相模湾の三つの浦の管理者で三浦です。人や物品の出入国の管理を任されていました。今で言う横浜税関です。当時も南西諸島や瀬戸内、支那からも物資が来ていたようです。その時の関銭の揚りが有り、結構裕福だったようです。なので、今でも海の仕事、船乗り、海産物を扱う仕事に就くと上手く行きます※

 

※ ミュラーの姓を持つ民族は地中海の島嶼に多いそうです。日本でもどう言う訳か瀬戸内海の「大三嶋神社」を祀る一族です。今は村上水軍の故地になっています。また、板東武士が祀る伊豆の「三嶋大社」は瀬戸内の、大三嶋神社の分霊です。さらに歌津の三嶋神社(縁結)はその分霊です。

 

以上の事が教科書にもどこにもない、私自信が調べた初期三浦氏の概説です。次からは一応資料に基づきます。

 

 

大陸からの渡来係・弓月ノ君の子孫  【秦ノ河勝】
大陸からの渡来係・弓月ノ君の子孫 【秦ノ河勝】

(2):官位・大仁(小徳)【秦ノ河勝】(用明天皇代〜聖徳太子)

 

(1)の「秦ノ始皇帝」との関係とは約四世紀頃、「弓月ノ君」という後の「秦ノ河勝」の祖先が秦ノ始皇帝の子孫として渡来して、現在の京都市の嵯峨野、嵐山、桂川、太秦※などに住みました。

 

※大秦とは中国語ではローマのことを言うらしい。

 

この一族は「秦ノ始皇帝の祖」ともいわれ、キルギス、ウズベキスタンあたりにいたローマ兵の末裔で、ユダヤ人の「失われた10支族」も混じっていたようです。

 

その秦ノ始皇帝が中国を統一すると、係累一族が皇帝から高句麗や百済、新羅に王や役人として派遣されていました。この頃朝鮮は秦国の属国でした。

 

 

そして秦は15年位で滅びましたが、前漢や後漢時代までは(漢ノ劉邦)の子孫も派遣されいたので、貴族や役人として、半島に居ました。

 

やがて、次の三国時代の混乱期になると、新たな王や役人が派遣されて、居られなくなり、127県の民衆と共に日本に渡来し※、山後ノ国→山城国の葛野郡、現在の京都の太秦などで機織りなどを生業とし栄えしました。(日本書紀にあり)

 

※年代的に「広開土王碑」の関連事蹟と思われる。研究が待れます。

この集団が「弓月の君」の一団で「秦ノ河勝」の先祖です。日本に秦織・機織りなどの技術を伝えた渡来人と言われる由縁がここにあります。なので後漢の(光武帝の子孫)にあたるという説もあります。

 

これは朝鮮の「在庁漢人」で決して朝鮮人ではなく、俗に言う朝鮮の両班階級で「秦・漢国人」です。このころはまだ在朝鮮人は両班にはなれませんでした。

 

 

皇尊 49代光仁天皇の子 50代 【桓武天皇】
皇尊 49代光仁天皇の子 50代 【桓武天皇】

(3):皇尊50代【桓武天皇】(西暦737〜806年)

 

三浦家の元祖となる50代「桓武天皇」は、49代「光仁天皇」の11番目の皇子でした。偶然に上の兄達がすべて亡くなり、皇位の座が巡って来ました。母親は「高野新笠」です。

 

ただ、49代「光仁天皇」の側室だった母親の「高野新笠」は渡来係で「秦ノ河勝」等の太秦係の出自で身分が低く、子孫は長く皇室には残れませんでした。それで「臣籍に降下」したのです

 

ここから「桓武天皇」の名をとって「桓武平氏」が始まりました。

 

さらに「平城京」の大和(奈良)盆地は旧勢力の地で、居ごちが悪く一度長岡京に遷都しました。しかし、なぜか「長岡京」も、疫病等で縁起が悪く、長く居ませんでした。

 

 そこで、嵯峨野や高野、嵐山、桂川、衣笠、太秦など、今の京都の右京区「秦ノ河勝」勢力の地で奈良から見ると山後ノ国→山城ノ国、今の京都盆地に「平安京」を遷都しました。母親の「高野新笠」の出自が右京区の「高野」に由来があると思われ「桓武天皇」は「秦ノ河勝」の渡来係の勢力を頼みにしたのかもしれません。

 

これが平安京「千年の都」京都の始まりです。そしてこの桓武天皇の第三皇子「葛原ノ親王」の子供が臣籍に降下します。皇籍に残った葛原ノ親王の兄二人が後の51代「平城天皇」52代「嵯峨天皇」となりました。

 

ちなみに52代「嵯峨天皇」の孫で臣籍降下したのが「鎌倉殿」の源頼朝らの嵯峨源氏でした。なので平氏も源氏も「桓武天皇」にたどると、従兄弟、ハトコになります。やはり祖々母の「高野新笠」の身分が「渡来係」で低いので、源氏系も長く皇族に留まって、公卿として残れなかったようです。今の眞子内親王と同じようです。

 

 

桓武天皇の第三皇子  【葛原の親王】
桓武天皇の第三皇子 【葛原の親王】

(4):官位・一品・太宰師【葛原ノ親王】(西暦786〜853年)

 

この「桓武天皇」の第三皇子、「葛原ノ親王」の長男、平ノ高棟の代に臣籍降下して初めて平姓を名乗った。

 

「葛原ノ親王」は延暦17年(798年)異母兄弟の大伴皇子(後の淳和天皇)と共に元服。延暦22年(803年四品治部卿に叙任される延暦25年(806年平城天皇即位後まもなく大蔵卿に任ぜられ、弾正尹を経て、大同4年(809年)三品に任ぜられる。

 

弘仁元年(810年薬子の変に前後して式部卿に遷ると嵯峨朝ではこれを10年以上務め、弘仁3年(812年大宰帥を兼ね、弘仁7年(816年)には二品に叙せられている。

 

弘仁14年(823年淳和天皇の即位後に弾正尹に遷り、天長2年(825年)には息子を臣籍降下させ平朝臣姓を称することを上奏して許されている。

 

天長7年(830年)式部卿に復し、翌天長8年(831年)には託基皇女以来80年ぶりに一品に叙せられている。

 

こののちも、約20年の長きにわたって式部卿を務め、この間の承和2年(835年)に甲斐国巨麻郡(現在の山梨県南アルプス市)の牧であった「馬相野空閑地五百町」を与えられている。嘉祥3年(850年文徳天皇の即位後に、再度大宰帥に任じられている。

仁寿3年(853年)6月4日薨去享年68。最終官位は一品大宰帥。遺言により葬儀は質素なものとしたという。伝承の墓所と邸宅跡地が京都府乙訓郡大山崎町にある。

親王として諸官を歴任したが、特に式部卿については、弘仁元年(810年)に任官ののち、途中弘仁14年(823年)から天長7年(830年)の期間を除いて、嘉祥3年(850年)に大宰帥に転任するまでの33年間にわたってその職にあり、『六国史』の薨伝において「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」[1]と親王自身が政務に熟達し、朝廷で重んじられていたことが記されている。

人物

幼少から俊才として知られていた。史伝を精読しており、歴史上の成功あるいは失敗例をもって自らの戒さめとしたという。恭しく慎み深い性格で傲り高ぶることがなかっ[1]

 

桓武天皇の孫 【平ノ高棟王】
桓武天皇の孫 【平ノ高棟王】

(5):官位・正三位・大納言【平ノ高棟】(西暦804〜867年)

 

葛原の親王の長男 「平ノ高棟」の代に臣籍に降下し平氏を名乗る

「桓武平氏の始祖」

 

「平ノ高棟」は弘仁14年(823年)二世王の蔭位により無位から従四位下に直叙され、伯父に当たる淳和天皇侍従に任ぜられる。天長2年(825年)父・葛原親王による再度の抗表により、臣籍降下して平朝臣姓を与えられ平高棟と名乗る。中務大輔兵部大輔大舎人頭を経て、天長7年(830年)従四位上・大蔵卿に叙任される。

淳和朝末から仁明朝前半にかけて刑部卿を務めた後、承和9年(842年正四位下・大蔵卿に叙任され、翌承和10年(843年)40歳の時に従三位に昇叙され公卿に列した。

文徳朝仁寿元年(851年参議に任官し、仁明朝から引き続いて大蔵卿を務める。仁寿3年(853年)父・葛原親王が没するが、父の死を悲しむあまり体が痩せ衰えた様子は儀礼を越えていたという[1]斉衡元年(854年)から大蔵卿に替わって皇太子・惟仁親王の春宮大夫を兼任し、天安2年(858年)惟仁親王の即位清和天皇)に伴い、正三位・権中納言に叙任される。

貞観元年(859年山城国葛野郡にあった別邸を仏教修行の道場とし、「平等寺」の額を賜与された。貞観2年(860年中納言、貞観6年(864年大納言に至る。貞観9年(867年)5月19日薨去享年64。最終官位は大納言正三位。

人物

身長が六尺(約180㎝)あり、美しいひげを持っていた。幼い頃から聡明で、古くから伝えられた書物を好んで読んだ。性格が細やかで親切であり、華美に飾り立てるようなことはなかった。諸官を歴任したが政務にあたっては寛容を重視した。晩年は仏教帰依経典を読誦した。大納言に任ぜられてのちは食封の多くを仏事に費やしたという[1]

高棟王の子 初代平氏の祖【平ノ高望王】
高棟王の子 初代平氏の祖【平ノ高望王】

(6):官位・従五位下・正親正・上総守【平ノ高望】

(平安前〜中期)

 

(高望王から平ノ高望に改名した)

高棟の子、平ノ高望王の代に初めて上総守になり、関東に下向した。『鎌倉殿の13人』板東八平氏の祖にあたる。

 

良文は側室の子で五男のため一番遅れて上総に下向した。

その正妻の子が平ノ将門など

 

 

 

 

寛平元年(889年5月13日葛原親王の第三王子高見王[7]の子高望王は、「民部卿宗章朝臣」の反乱を討伐したため、宇多天皇勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望を名乗った[8]。『日本紀略』寛平元年5月13日条によれば、高望王以外にも4人が平姓を下賜されたという。

昌泰元年(898年)、高望は上総介に任官した。当時の上級国司は任地に赴かない遙任も少なくなかったが、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴く。高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国下総国上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。

しかしその後、延喜2年(902年)に西海道国司となり大宰府に居住、延喜11年(911年)に同地で没する[2]。なお、この間の延喜3年(903年)には、昌泰の変により失脚した菅原道真も同地で薨去している。

 

初めて上総国に下った平ノ高望の五男  【平ノ良文】
初めて上総国に下った平ノ高望の五男 【平ノ良文】

(7):官位・従五位上・平朝臣・陸奥守・鎮守府将軍【平ノ良文】

(西暦886?〜953年?)

 

高望王の五男、平ノ良文は遅れて関東・上総国(千葉県)に下向したが、陸奥守、多賀城と思われるが、鎮守府将軍を歴任している。

 

その子孫が鎌倉係=良文→忠頼

 

仁和2年(886年)3月18日に京で生まれたとされ(『千葉大系図』)、優しい風貌の勇将であったと伝わる。

昌泰元年(898年)に父の平高望が東国に下向した際には、正室の子である平国香平良兼平良持は従ったが、側室の子である良文は従わなかった。延長元年(923年)、36歳の良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向し、盗賊を滅ぼしたと伝わる。

大法師浄蔵伝』所引『外記日記』天慶3年2月25日条には、平将門の敗死の第一報を都に伝えており、良文が藤原秀郷平貞盛側に加わっていたことがわかる[1]

その後武蔵国熊谷郷村岡(現・埼玉県熊谷市村岡)、相模国鎌倉郡村岡(現・神奈川県藤沢市村岡地区)に移り、そこを本拠に村岡五郎を称したとされるが、謎の多い人物である[注釈 3]加えて下総国結城郡村岡(現・茨城県下妻市)にも所領を有し、現在の千葉県東庄町大友城、同香取市にも居館があったとされる。

天慶2年(939年)4月17日、陸奥守であった良文は鎮守府将軍に任じられて乱を鎮圧し、鎮守府である胆沢城にとどまった。実際に同日、出羽国俘囚と秋田城司の軍勢が衝突しており朝廷は陸奥守にも兵を出すように命じている。天慶3年(940年)5月、良文は関東に帰国した。

初めて上総国に下った平ノ高望の五男 【平ノ良文】
村岡城跡

晩年は下総国海上郡、さらに阿玉郡へ移り天暦6年(952年)12月18日に67歳で没したと云われる。千葉県香取市の阿玉には「伝平良文館」があり、城郭の遺構として空堀土塁、物見台などが確認された。藤沢市村岡東に村岡城跡と伝わる場所があり、良文の後裔の一族のひとつである薩摩東郷氏出身の海軍元帥・東郷平八郎が額を書いた(撰書は海軍中将・東郷吉太郎)城址碑が建つ。

 

 

源宛との一騎討ち編集

今昔物語集』には源宛(箕田宛)との一騎討ちの説話が収められている[注釈 4]。これによると源宛との一騎討ちは以下のようなものであった。今は昔、東国に源宛・平良文という二人の武士がおり、二人の領地は荒川を隔てて近いところにあってたびたび家来たちが小競り合いをしていた。そのうちに家来同士ではなく二人で一騎討ちをしようという話になり、お互い家来を引き連れて荒川の河原に乗り込み、家来には手出しをしないように命じて前へ進み出た。はじめに源宛は平良文の放った矢を軽くかわし、次々と射られる矢を刀で打ち落した。平良文も負けじと源宛が放った矢を軽くかわして次々射られる矢を刀で打ち落し、二人の素晴らしい技に敵味方関係なく喝采が送られた。二人は一歩も譲らず、戦いが終わると互いに駆け寄って健闘をたたえ合い今後は助け合って地方の開発に尽くすと誓い合ったという。

平将門と良文編集

将門記』には良文に関する記述は無く承平天慶の乱の際の詳しい動向は不明であるが、武蔵国あるいは相模国の村岡に居て将門側にあったのではないかと推察されている[注釈 5][注釈 6]千葉神社の染谷川の碑文によると、伯父の平国香(平貞盛の父)らが染谷川で将門を襲撃した際、叔父の良文が将門を援護し両者は逆襲したとされる。記録では将門討伐には加わっておらず手柄を立てたわけでもないのに将門の旧領である下総国相馬郡を与えられている。

妙見菩薩と良文編集

初めて上総国に下った平ノ高望の五男 【平ノ良文】
染谷川沿いの妙見寺・妙見社

平将門が伯父の平国香と争うと、良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた。この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、良文は自害する場を求めてさまよっていた。そこに突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに後をついていくと寺院が現れた。その寺院の寺僧によるとここは妙見寺という北斗七星の化身・妙見菩薩を祀る寺院であり、良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡された。また寺僧の言葉の通り、その証拠として良文の体には月と星の印が浮き出ていた。この出来事以降、妙見菩薩の加護を受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を討ち据えたが、良文はこの乱中に、北を目指して陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に赴任していった。一方、将門は凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門を離れ良文の元に渡ったとされる。

また、後代千葉氏の一族によって編纂された『源平闘諍録』には、良文が甥である将門の養子となっていたので、将門の窮地を救った妙見菩薩が良文から忠頼を経て千葉氏に伝わり、結城浜の戦いでは千葉成胤を助け源頼朝を守ったとする記述がある。

夕顔と良文編集

晩年、良文は夕顔の花を愛し、死に際して子の忠頼に「自分に会いたくなったら、畑に植えた夕顔の実を開けよ」と遺言した。忠頼が畑の夕顔を割ったところ、中から観音像が出てきた。のちに、千葉のまちを開いた千葉常重の夢枕に「この夕顔観音を祀れ」とのお告げがあったため、大治年間中、現在の千葉県香取市小見川付近に白華山樹林寺が開かれた。近くにある良文の墓は「夕顔観音塚」と呼ばれる。

徳川家康の関東移封に伴い、高遠から下総多古に封ぜられた保科正光は、この夕顔観音を深く信仰し、高遠城に戻る際、複製を造らせて持ち帰った。このため、高遠城の近くにも同じ樹林寺という名の寺がある。このほか、東京都葛飾区安福寺にも夕顔観音がある。

子孫編集

良文には5人の子がおり(『二中歴』)、長男の平忠輔は早世したが、春姫(平将門の娘)を正室とした三男・平忠頼からは千葉氏上総氏秩父氏河越氏江戸氏渋谷氏などが、五男・平忠光からは三浦氏、梶原氏長江氏鎌倉氏などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成した。後に、源頼朝による源平合戦(治承・寿永の乱)に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し、鎌倉幕府で有力な御家人になった者の多くがこの良文流平氏に属する。

坂東武者の始まり

 

 

 

平ノ良文の子【平ノ忠頼】
平ノ良文の子【平ノ忠頼】

(8):官位・従五位上・平朝臣・武蔵介【平ノ忠頼】(西暦930〜1019年)

 

その子孫が鎌倉係=良文→忠頼

 

経歴

 

平 忠頼(たいら の ただより)は、平安時代中期の武将。村岡五郎平良文の子。名は経明、恒明と。父と同じく村岡を号とし村岡次郎と称した。官位武蔵介平将門とは従兄弟にあたる。

 

忠頼は平繁盛が延暦寺に金泥大般若 経600巻を書写して奉納しようとした際に、かの仇敵を駆逐するためという理由から兄弟の忠光と共にこれを妨害した。平将門の乱を鎮圧した平繁盛を仇敵と呼んでいたことから、忠頼の父である良文は平将門と親しかったものと思われる[2]

寛仁2年12月17日に90歳で死去したとされるが、伝説と思われる

 

 

平ノ忠頼の子 【平ノ忠常】
平ノ忠頼の子 【平ノ忠常】

(9):官位不明 平朝臣【平ノ忠常】(西暦967〜1031年)

 

その子孫が鎌倉係=良文→忠頼→忠常

 

平 忠常(たいら の ただつね)は、平安時代中期の武将豪族陸奥介平忠頼の子。房総平氏の祖。父方の従父でもあり、同時に母方の祖父は平将門

 

祖父の平良文武蔵国村岡に土着して村岡五郎と称して、下総国相馬郡の大半を所領とした。父の忠頼も関東で有力な武士として名を馳せた。

忠常は祖父と父の地盤を引き継ぎ、常陸国上総国、下総に広大な所領を有し、上総介(『日本紀略』による。『応徳元年皇代記』には下総権介)、武蔵押領使に任官されている(これらの官に任官はされず自称という説もある)。諸系図では下総千葉郡にて千葉四郎と称した。京に上り藤原教通藤原道長の次男)に仕えていた形跡がある。忠常は強大な武力を背景に傍若無人に振る舞い、国司の命に従わず租税も納めなかったとされる。

長和5年(1016年)以前から忠常は常陸の左衛門大夫惟基(平維幹?)と利権をめぐって抗争しており、忠常は惟基のことを「惟基ハ先祖ノ敵也」と述べている(『今昔物語集』)。

長元元年(1028年)6月、忠常は安房国の国府を襲い、安房守・平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが受領との対立が高じたものと思われる。朝廷は忠常追討を命じ、追討使平直方が派遣された。官軍を相手に忠常は頑強に抵抗した。乱は房総三カ国に広まり、合戦の被害と官軍による強引な徴発により大いに疲弊した(平忠常の乱)。

長元3年(1030年)9月、平直方が解任され、甲斐守源頼信が追討使に任じられた。長期にわたる合戦で忠常の軍は疲弊しきっており、長元4年(1031年)春に忠常は出家して常安と称し、子2人と従者をつれて頼信のもとへ出頭して降伏した。平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。

同年6月、へ連行される途上の美濃国野上で病没した。忠常の首は刎ねられ、京で梟首とされたが、後に首は親族へ返されている。子の常将常近も罪を許された。

平忠常の乱は、平繁盛やその子孫(常陸平氏)と忠常の一族(平良文流平氏)の競合を背景に、常陸平氏と連携する都の平貞盛流による追討を借りた良文流に対する私戦であったとする見方がある[2]

忠常の子孫は房総半島の有力武士として残り、後に鎌倉幕府御家人となる上総氏千葉氏が出た。

 

 

後の平氏の揚羽蝶紋
後の平氏の揚羽蝶紋

(10):官位・従五位下・相模大掾 【平ノ忠通】(平安中期〜後期)

 

その子孫が鎌倉係=良文→忠頼→忠常→忠通

 

平 忠通(たいら の ただみち)は平安時代中期の武将三浦氏鎌倉氏の祖平 忠通

 

 

平良文の後裔と云われる。村岡郷に拠って村岡氏を称したとも云われるが判然としていない。また、碓井氏藤原氏との関連も伝わり、忠通は桓武平氏ではなかったという説を唱える者もいるが、これは初期桓武平氏の系図に混乱がみられることもその要因の一つである。

清和源氏の棟梁・源頼光に仕え、次いでその実弟・頼信にも仕えるようになったとされる。初期桓武平氏一族は東国を地盤として所領を開発する一方で中央の有力者である藤原北家の嫡流とも繋がりを有し度々上洛していたことが確認されているが、三浦氏の所領である三崎荘が後に藤原道長の外孫・儇子内親王敦明親王女)に寄進されていることなどからも推して、忠通もまた北家の嫡流と繋がりを有し都と東国とを往来する過程で清和源氏一族と結びついたのではないかと考えられている。但し、その主従関係は隷属性の強いものではなく、いわば同盟関係に近いものであった。

系譜

三浦氏の祖である忠通が良文の実子であるという説はよく出るが、これは明らかな誤りで、もし良文の子であるなら忠通-為通の親子関係は存在しなくなってしまう(忠通が良文最晩年の子だとしても、為通と70歳近い年齢差になる)。

系図にも異同が多いが、「良文-忠頼忠常-忠通」「良文-忠光-忠通」と言った系図もある。いずれにせよ忠通が三浦氏の祖であるなら良文の孫・曾孫世代でないと整合しない。

◎ここの所は筆者(二三男)も疑問に思っている。間に誰か一代が抜けているのかも知れない。記録としては時に有ることだ。これからさらに記録が出るやも知れず、これをもって系図の統一を否定するものにも当たらない。研究とはそう言うものだ。新たな資料の出現を待ちたいところです。

伝承

今昔物語』によると、忠通はの名手として剛勇を鳴らしたが、ある時宴席で、主君・頼光の実弟である頼信から、ある男を討ち取ってくれるよう頼まれた時があった。忠通は一応承諾したが、主君の命というわけでもなく、討ち取るべき男と面識もなかったため、頼信の頼みを果たすつもりはなかった。

 しかし、しばらくの後に、その男と偶然会ってしまった。忠通はことの経緯を全て話し、討ち取る気が無いことを伝えたが、男は「あなたの武勇で私を討ち取るのは難しいことでしょう」と凄んで見せた。この一言で忠通が怒って討ちあいに及び、見事討ち取ったと云われる。忠通は褒美として駿馬を贈られ、また頼信がこの浅はかな男を討てと言った意味に感心し、以降は頼信を主君と仰ぐようになったとつたわる。

 

【三浦ノ為通】が横須賀に初めて構えた衣笠城跡
【三浦ノ為通】が横須賀に初めて構えた衣笠城跡

(11):官位・従五位下 平朝臣 相模介【三浦ノ為通】

(西暦1010〜1083年)

 

その子孫が鎌倉係=良文→忠頼→忠常→忠通→為通

 

 

三浦 為通(みうら ためみち)は、平安時代後期の武将・豪族三浦氏の祖とされる。桓武平氏良文流。村岡五郎平忠通嫡男。通称三浦平大夫。別名三浦為名鎌倉章名の兄。

 

三浦氏の祖とされます。桓武天皇の孫、高望王が平高望と平性を名乗り、その子平良文の曾孫、平忠通の子が三浦為通。奥州合戦「前九年の役」で活躍した功績により源頼義から、相模国(神奈川県)の三浦郡と上総国、房総半島の一部の領地を与えられました。

 

子に為継為直(『桓武平氏諸流系図(群書類従)』など、一部の系図では為通と為継の間に為直を置く)、為俊、女子(鎌倉景通室?)らがいる。

系図纂要』によると、三浦氏は為通が源頼義から相模国三浦郷を与えられたのが始まり。別説として、為通の大伯父・平忠輔が三浦氏の初代であったという説もある。忠輔の系統がすぐに男子絶え、為通の系統が三浦家を継いだというものである。

そして衣笠城を築きましたが、衣笠とは京都右京区の衣笠が由来かもしれません。

後に三浦ノ大介義明は頼朝挙兵の「石橋山の合戦」の後、ここ衣笠城で戦死した。

 

 

 

 

三浦の家紋 三つ引き両
三浦の家紋 三つ引き両

(12):官位・不明 平朝臣・相模介【三浦義継】(1067〜1159年)

 

 

その子孫が鎌倉係=良文→忠頼→忠常→忠通→為通→義継

 

 

 三浦 義継(みうら よしつぐ、1067年治暦3年) - 1159年3月12日保元4年2月21日[1][2])は、平安時代後期の武将。父は三浦為継。子に三浦義明津久井義行蘆名為清岡崎義実。通称は平六、平大夫[3]

 

人物編集

相模国三浦郡を治め、在庁官人として活躍[1]1144年天養元年)には、子の義明や在庁官人の中村宗平らと共に大庭御厨へ侵攻した(大庭御厨濫行事件)。また三浦荘司と称し、三浦郷を寄進して三浦荘を成立させた[1] 。1104年長治元年)には父為継のために清雲寺を創建した [4]

 

 

ここからが鎌倉殿の13人の詳細

三浦ノ義継の子 従五下 【三浦ノ大介 義明】
三浦ノ義継の子 従五下 【三浦ノ大介 義明】

(13):官位・従五位下・平朝臣・三浦ノ大介【三浦義明】

(西暦1092〜1180年)

 

父は相模ノ介三浦義継 

 

義明は「後三年ノ役」に源ノ義家に従い多賀城に来ている。そして手柄をたて、三浦ノ大介に(オオスケ)に任じられている。

 

これは「介」は三浦郡の郡長で「大介」は相模国の全郡長代表という意味で、相模国ノ介にもあたる。

 

(介とは守が京都から任命されてくると、在地の長官として、地方に詳しいので、補佐役をする。今の県の副知事)

 

さらに、源ノ義家に自分の娘を嫁がせ(波多野ノ義通の妹)、後の鎌倉源太義平(悪源太義平)が生まれている。そして息子の義澄が大番役として、京都勤務をしていた時、「平治の乱」が起き、鎌倉源太義平と共に戦った。義平は頼朝の腹違いの兄だった。

 

(大番役とは地方の郡長などが三年おきに京都に登り、御所の警護や検非違使庁、今の京都府警の幹部役をする役目で、普段は「北面ノ武士」とも言われた)従六位以下で地方に領地を持っている武士階級の務め。後の大名の参勤交代と同じ務めだった。「番長」の語源で左右衛門府で半月交代で京都府警本部長を勤め威張っていた。

 

御所の宿直当番で軍隊の歩哨と同じで結構きつかった。当初は日本全国の六位以下の武士階級の務めだったが、平安後期には近畿五カ国の侍は免除され、東国武士等から大きな不満が出ていた。頼朝を担いで東国武士が京都から独立して、鎌倉幕府を樹立したのはこの不満があったからです。

 

義明は頼朝が挙兵した「石橋山の合戦」の後、衣笠城で戦死した。89才

 

 

 

 

 

三浦ノ義明の子 従五位 平朝臣相模守 【三浦ノ荒二朗 義澄】
三浦ノ義明の子 従五位 平朝臣相模守 【三浦ノ荒二朗 義澄】

(14):官位・従五位下・平朝臣・

     相模守【三浦ノ荒二朗義澄】

                         (西暦1127〜1200年)

 

義澄は『鎌倉殿の13人』で、平治の乱の際は源ノ義朝に従い、義朝の長男・鎌倉源太義平(悪源太義平)の16武将の一人として従軍したが、負けて鎌倉に戻る。この後の頼朝挙兵の時は大番役で京都にいた。

 

勤務を終え三浦に戻り石橋山の戦いの後の頼朝軍と合流した。

 

後に義澄は一関の奥州合戦(源義経征討)に頼朝に従い参戦し、手柄をたて平泉の藤原ノ本吉四郎高衡の領地だった、本吉郡歌津村、本吉郡波路上村、本吉郡馬込村、登米郡中田村の領地を拝領した。

 

そして歌津の首邑、伊里前に、牧野刑部を代官として置いた。これが歌津の牧野氏の祖です。

 

この時に我が家と歌津との縁が始まった。

 

そして、義澄は鎌倉殿の国造りに大いに貢献して従五位下相模ノ守に任ぜられた。今で言う神奈川県知事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

三浦ノ義澄の子 従四下 平朝臣 駿河守 【三浦ノ平六義村】
三浦ノ義澄の子 従四下 平朝臣 駿河守 【三浦ノ平六義村】

(15):官位・従四位下・平朝臣・

    駿河守【三浦ノ平六義村】

                        (西暦1168年〜1239年)

 

義村も『鎌倉殿の13人』で父義澄の正室の六男ですが、兄達が亡くなったのでしょう、家督を継ぎました。そして駿河ノ守に任じられました。今で言う静岡県知事です。

 

◎ 和田義盛は伯父の子供で従兄弟です。

 

 

 

 

 

 

 

 左衞門尉・鎌倉侍所別当 【和田義盛】
左衞門尉・鎌倉侍所別当 【和田義盛】

(16):官位・左衞門尉・鎌倉幕府侍所別当【和田義盛】

                        (西暦1147年〜1213年)

 

 

和田義盛は(13)の三浦ノ大介義明の孫。(14)の義澄の伯父の子供で(15)義村とは従兄弟です。

 

伯父は義澄の兄でしたが、側室の子供なので鎌倉では和田に住み和田を名乗りました。これが和田といえば、三浦も同然と言われる由縁です。

 

義盛は京都朝廷では左衞門尉と鎌倉幕府の侍所別当でした。血気盛んで人気者のムードメーカーだったようです。

 

後に義盛は執権北条義時に対する、若手不満分子に担がれることになり、謀叛として扱われ「和田の乱」の原因となりました。

 

偶発的とも思われ従兄弟の義村も、かばい切れなかったようです。官位は六位相当と思われる。

 

 

◎                                 歌津の三浦家 個人情報に付き取り扱い注意 !                 ◎

我が家の先祖が伊豆から勧請してきた歌津の三嶋神社の鳥居
我が家の先祖が伊豆から勧請してきた歌津の三嶋神社の鳥居

(17):以降(西暦1213?〜2000年代・令和現代)

 

『鎌倉殿の13人』(14)の三浦ノ荒二郎義澄が奥州合戦の功績で頼朝から拝領した、本吉郡歌津村、本吉郡波路上村、本吉郡馬込村、登米郡中田村の領地に下る時が来ました。

 

三浦ノ平六義村→泰村→歌津に居住してからの三浦氏

 

ここからが「名足」の「仲向」・「馬場」の我家および歌津の三浦家の親類に伝わる家伝の話です。

 

その中に「三嶋様の巻物」いう話があります。それは宮城懸史に載っている主に名足の「仲向」の家系図で三浦ノ大介義明(14)から27代までのものが載っていました。

 

(18):官位・従五下・平ノ朝臣 三浦ノ大介義明から27代までの系図の写しを書く(予定)しばしお待ちを。

 

そして家伝です。

◎ 船に馬を積み一族郎党32人で関東から北上し南から歌津湾に入りました。まず、泊浜港に上陸して、代官として「岩石」さんを、(現在の家号)ヤカタ「館」として泊浜に置いたそうです。

 

次に伊里前湾に入り、「鎌倉から来たので、これから三浦家が支配するよう」申し渡したが、牧野氏が従がわず、戦となり我が家が勝ったので、戦勝祝いに伊豆の三嶋大社から勧請してきた「三嶋様の分霊」の巻物を背中に担ぎ、階段を登り安置する儀式をした。これが「三嶋様勧請」の状況の伝説です。

 

この話は同じような話を牧野さんも持っていると、私が歌中に通学していた昭和の時分まで言われてました。

ただ、その地には以前からの住民が祀る、神域もあった模様です。何の神様は不明ですが、アイヌ係の神と思われます。私も中学時代何度も神社に登り調査すると、色々な祭神が祀らていて、地域の氏神様もありました。

 

そして領地の事は経緯は不明ですが、歌津の海側の浜地域を治めるため名足に本陣と騎馬武者なので馬の教練が必要なので馬場に我家を置きました。これが馬場の始まりです。ちなみに仲向が長男で馬場は次男だそうです。その他は本吉郡の波路上村、本吉郡の馬篭村※、登米郡中田村の領地に別れて住む事になったそうです。

 

※現気仙沼市、波路上と馬篭の子孫との交流の確認は昭和58年ごろ、当家、捨治郎爺さんと上屋敷の鶴太郎兄さんとで、伝説の確認に行くと、確かに波路上の三浦氏との交流は「明治期まで、冠婚葬祭の付き合いがあった」と証言を受けて来ました。岩井崎の三浦氏はお伊勢浜と杉の下の三浦氏とがあったとのことです。

 

◎これが「馬場 」の地名の由来です。中田村に行った三浦氏は歴代中田町長を務める。歌津町役場(現南三陸町)に務めた仲向の浩君や作兵衞叔父さんと交流があったと聞きます。

 

次に「三嶋様の巻物」の話しです。以上のような家伝や物語を聞きがら育ち、中学に行くと偶然そのときの町長が、牧野康治さん(マギコウ)で、その孫の牧野礼子さんも同じ四学級にいました。また、横山厚子さんもいました。当時グループ学習があり、よく机を並べて学習しました。思い出すと今でも不思議な縁を感じます。

 

クラスは違えど、同じく三浦満江さん、畠山美津子さん、横山泰子さんも同じ鎌倉武士の関係者と思われます。

 

◎ 三嶋神社を守るように近くに鎌倉から来たのか?「追分」近辺や「カマノマエ」(神ノ前)に横山氏や二階堂氏(鍛冶屋)、畠山氏の板東武者・鎌倉武士と思われる一団が住んでいて。代々昭和まで婚姻を結んでいた様です。

 

そんな経緯でその伝説の「三嶋様の巻物」の内容が知りたくなりました。すると父が仲向から巻物の写しと宮城懸史を借りて来てくれました。

 

(19):旧伊達藩士・名足・仲向・【卯八郎】〜明治

そして、精査すると、巻物そのものは、仲向の29代目か庄八氏が明治29年の津波に遭い、その後、小樽水産学校※に進学したときに持って行き、その後福島市に住んで、そこに在るとのことでした。(庄八氏と父卯八郎氏は家族が津波で流され二人だけ残されたそうです)

 

※この時小樽水産学校に一緒に進学したのが、馬場のウスコロバシの人と泊の大北?の人の3人とのこと。この話しは馬場の妻新家、千葉勘衞門さんから聞きました。この方は当家(26)治郎左衞門爺さんの甥にあたります。

 

そして仲向は明治で一度絶え、昭和になり三浦充一さんを立て再興しました。そのさい、三浦本家の正当性を担保するため、仲向の充一さん、(上)当家の徳治郎爺さん、(中)の新之丞爺さん、(大下)の義男爺さんとで、福島市まで出向き、譲って貰うようお願いしたのですが、流石に渡せないとなり、その替わりに書写してきました。

 

◎その書き写しが今名足の仲向にあるはずです。内容は「宮城懸史」に記載されている系図書きと同じ物です。

 

 (20):名足・仲向・福島市ノ偕楽亭経営者【庄八】明治〜昭和

ちなみに三浦庄八氏の最期の邸宅は今の福島市の「紅葉山公園」になってます。子供が無く養子にしていた三浦義郎さんという人が、日大郡山を出て毎日新聞の記者になり、名古屋市に住み家を継がないので福島市に寄贈したそうです。そして「三嶋様の巻物」はこの方々が名古屋で空襲に遇い焼失したと作兵衛叔父さんの話しです。

 

私が昭和58年頃取材で、福島市万世町に行き、当時の女中さんに会い、福島市に寄贈した経緯を調べて来ました。その記録は市の公園課にあります。この女中さんが最後に三浦義郎さんに会ったのが昭和46年7月30日に起きた「全日空雫石航空機事件」に取材で岩手県に向かう途中に、福島市に寄った時と話していました。

 

庄八氏の奥方は「志賀さき」と言って二本松藩士族の娘だそうです。庄八氏と当家の徳治郎爺さんは親しかったらしく、爺さんが日露戦争前後に海軍に居て休暇で、家に帰る途中に福島に寄ったという話しも聞きました。

阿武隈川の見える風光明媚な現「紅葉山公園」は当時皇族「山階ノ宮親王」も宿る「偕楽亭」いう料亭でした。

 

(21):名足・仲向・名足魚業協同組合職員【充一】明治〜昭和

三浦充一さんは家号「習練」(ナライ)と言って親類ではないですが、昔からの三浦家一族の弓道の先生でした。それを英喜さんの代になり、故事が分からず屋号を「東風」ナライとしてしまいました。いまの墓標が「東風」になっています。本来は「習練」で「習い事の道場」ナライです。この間まで和弓(ユミ)も有りましたよね。※

 

※同級生の名足の三浦英夫君の生家で英喜さんは兄です。この弓は私が高校生の時、英夫君の家に遊びに行き、二階に置かれていたのを確認しています。ナライはこの度の津波では流出しないので、弓は無事と思います。

また、ナライには明治29年の津波に遭った庄八氏(20)が養育して貰った経緯があるという。(母方の実家か?)

 

(22):名足・仲向・名足農業協同組合職員【作兵衞】昭和〜令和

「三嶋様の巻物」の写しは馬場の我が家にも在りましたが、2011年3月11日の東日本大震災の津波で、流失してしまいました。ただ、写しの元紙(便箋に書き写した物)と宮城懸史は仲向(作兵衞叔父さん・浩君)が津波に遭わぬので現存しているはずです。ちなみに作兵衞叔父さんは私の母の弟にあたります。(田ノ浦の千葉家)

 

(23):名足・仲向・官職:歌津・南三陸町職員【浩】昭和〜令和

更に「三浦一族・鎌倉殿の13人ノ系譜」は多くの人の要望があり書きました。いざ書いてみれば、伊都内親王や在原業平と従妹ハトコだったりと、思わぬ驚きがありました。これを知った家人は「だから書道も上手く和歌も詠むのね」と言われましたが、苦笑するしかありませんでした。(浩君は従弟になります)。

 

馬場「上城」復興のシンボル旗
馬場「上城」復興のシンボル旗

(24):【馬場上城ノ三浦家】江戸〜令和

 

(25):官位・伊達藩在地領主・【万太郎】江戸〜大正

 

(26):平民・【治郎左衞門】慶応〜昭和

 

(27):官職・海軍軍人・【徳治郎】明治〜昭和

 

(28):官職・陸軍軍人【捨治郎】大正〜昭和

 

(29):会社員・阿部長商店【一郎】昭和〜令和

 

(30):官職・仙台国立病院職員【孝子】昭和〜令和

 

(31):官職・総務省・郵政事務官【二三男】昭和〜令和       

 

筆者(31)は(29)【一郎】ノ次弟

 

結果、思わぬ物語になりました。欧米ではこう言うのを「SAGA」(家伝物語)と言い、ひとつの文学形式でもあります。ちょうど我が家の歴史もこの震災と時代の変遷で現状「上城」跡も更地に戻り、ようやく封建社会の終焉を感じます。

 

そして現地「上城」地域は今住む人もなく、生命工学の研究や聖書研究、三浦家の歴史顕彰の地に生まれ変わりました。新たな時代は聖書に基づいた地域社会になるでしょう。そのようなコミュニティに感心のある方を歓迎します。それら新時代の話しを(ファンクラブ)として、これからも綴って行きたいと思います。

 

奇しくもこの「SAGA」を書始めると英国のエリザベス女王の薨去と重なりました。2022年9月 吉日

ここまで読んで頂き光栄です。いずれこれらの物語を要望に応え、映画化やドラマ化、ミュージカルも有りで、

「震災後の地方創生に活かせれば最高だなぁ」と思っています。

                                                 

                                      注 (1)〜(31):ナンバーは代ではなく、文章上の通し番号です。

 

                  歌津馬場 上城  三浦一族ノ歴史顕彰会(ファンクラブ) 作家 Don・Vito・Fumione