1998年から1999年にかけて「20世紀に最も重要な100人」とタイム誌にビートルズとして載ったポール・マッカートニー。
2025年今度は83歳にして同じく、最も音楽に影響をあたえた100人に選ばれました。おめでとう御座います。
その昔、華の歌中三年の夏休み明け八月三十一日、二学期が始まって数日後、下校に自転車で校庭の野球部の、バックネットの近くまで来るとどこからともなく
♪「ヘイ ジュ~ド~」と、どこか哀調をおびた音楽が聞こえて来ました。現在の「南三陸町民俗資料館」の正面入口のあたりです。
曲はご存知ビートルズの『Hey Jude』です。米国では八月二十六日、ロンドンではこの前日のハ月三十日に発売になったばかりです。
当時、華の歌中の応援歌に♪一番「霧のロンドンで誰がいう、ビートルズのいう事にゃ 今年も四区が勝つ勝つ勝つ勝つ」
♪二番「もしも四区が負けたなら 電信柱に花が咲き 描いた魚が泳ぎだす泳ぎだす」という替え歌がありました❈
❈曲は『花さか爺さん』です♪みなさまもここで、ご一緒にどうぞです。
それで、その時私は『ヘイ ジュード』ってナニ、「随分乱暴な歌だなぁ」と、率直な思いを持ちました。直訳だと「オイ、コラ、ユダ公」・「裏切り者」だからです。でも、それは無いよなぁ、もしかして、今さっき部活の「柔道」を終えたばかりなので「それかぁ」とも思いました。
ちょうどビートルズが来日公演する二年前に東京オリンピックがあり、この時「柔道」が東京大会で初めて正式競技に加えられ、世界的な話題になったからです。なのでビートルズも知っているはずだ、と思いました。
さらにまたJohn・Lennonがユダヤ人ぽかったので、ポールがジョンの事を歌にしたのかなぁとも思いました❈
❈Johnがヨハネでユダヤ系であると言う話しは未だ公になった事はない。ただ、私は今でもそう思っている。
しかし、それではいかに仲の良い二人でも大喧嘩どころではなくなります。ですが、曲調はやはりジョンのことのようなのです❈そして時間と共にあれだけの大ヒット曲でしたから、多くの人が解釈に挑みました。するとこの曲はジョンの長男ジュリアンの事だったのです。そこには悲しい物語がありそれをポールが歌にしたのです。
❈出だしはずっとマイナーと思ってましたが、ポールがメジャーをマイナーぽく歌出しているとか。流石です。
重ねてその悲しみの原因にポールが一枚噛んでいたのです。実はこのときジョンと先妻のシンシア婦人が別れようとしていたからです。理由は後妻の小野洋子さんの出現です。そして、その小野洋子さんをジョンに紹介したのが、誰あろうポール・マッカート二ーだったからです。この時先妻の子ジュリアンは六歳になっていました。
この曲が発売される二年前ビートルズは東京公演を終え、次のフィリピン公演に行き八万人のファンを動員したが、国王夫妻招待のレセプションをキャンセルしたため、帰りの空港にあまりにも大勢の抗議の民衆が押しかけ、楽器も奪われそうになり命かながら逃げ帰って来て、さらにギャラ収入も没収され散々な思いをしました。
元々野外コンサートもこれらスタジアム等のコンサートも、メンバーにはノーギャラの契約だったそうです。
取分は全額マネージャーのエプスタインの物とか。追い打ちをかけやがて客席の女の子の「キャー」の黄色声援も、次第に誰も自分達の演奏を聞いてないと悟り、あと一回の英国でのコンサートを境に辞める事にしました。
そしてスタジオに籠もり曲作りをする方針に転換しました。そして一年後に頼みの綱のマネージャーのブライアン・エプスタインが亡くなるのです。この辺から最大の支持者ジョンのメンタルに著しい変化がはじまります。薬物の影響もあり余計に情緒不安定がひどくなりました。そして音楽を辞めることを考えることもありました。
そんな折、たまたまポールが出掛けたパーティで、アバンギャルト゚の小野洋子さんに出会うことになるのです。
彼女はロンドンに住む前衛芸術家として活動をしていました。彼女の出自は日本の三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎のひ孫です。顔の輪郭と広さがそっくりさんです(笑)
脱線ながら、後にこの顔の広さをネタにジョンが♪「カム
ツゥゲダー」の曲を作りました。♪「髪が長く膝まで垂れて 顔が航空母艦のように広い女」とは洋子さんのことです。流石にジョンも始めはノリで歌っていましたが、終いには余り歌わなくなって行きました。ただ、間奏でジョンが挟む「ショット」が問題になりました❈
❈1980年12月8日ニューヨークのダゴタハウスの入り口で、ジョンを待ち伏せしたジョン・ヒンクリーの頭の中にこのショット「撃て」のブレイズが駆け巡っていたとか・・・さらにメイビー・CIAが関係していたとかで、一時マインドコントロールの話しもありました。ちなみに最近エルビスの関与も出始めました。余談でした。
このパーティのとき小野洋子さんは、自分が開催していたロンドンのインディカ・ギャラリーでの、芸術品会場の案内パンフレットを配っている最中に、ぜひ、「自分の個展を見に来てほしい」とポールに案内状を配ったそうです。ただし、この時、洋子さんはビートルズもポール・マッカートニーのことも知らなかったそうです。
また、ポールも小野洋子を知らず気軽に「うん、分かったよ、僕は行けないけど、こう言うのが好きな友達がいるから紹介しておくね」って、何気なくパンフをもらい返答をしたとのこと。ただ内心は「ああ、また、都市芸術家などを騙るマリファナパーティか、ナニかかな」ぐらいに思っていたそうです。
そして、ある日、うさん臭いと思いながらも「どうせ暇だし、まっ、イッカ」とジョン・レノンが個展会場に足を運ぶと、会場は展示物も怪しく「ふむ ふむ なんだこれ~」の状態とか・・・そして半ば呆れ部屋の真中までに行くと・・・(世界を揺るがした感動の出会を知りたい方は、あとは世紀の出来ごとなので自分で調べてね)
ヒント、部屋の真中に脚立・ハシゴが一個ありましたとさ。オシマイ。と、終えるとファンから「もっと書いて」とリクエストが有りましたので続けますね。すると天井に三センチ位の小さな張り紙があり、更にそこから虫眼鏡・ルーペがぶら下がっていました。
するとジョンは「てっ、ことは何か~」とハシゴを登りルーペでメッセージを読みました。そこにはただ「YES」の文字が小さく有るだけでした。しかし、元々、アバンギャルドを目指して、美術学校に通ったジョンには閃くものが有りました。
さらに幻の板というコーナーで「一ペンスを払ってここに釘を打ち付けて下さい」と言う洋子の謎掛けの張紙の前で、ジョンが「今は持ち合わせがないが、イリュージョン・幻で払うよ」と返答をすると、洋子が痛く気に入り「私は洋子、あなたは?」との問掛けにジョンは自分の事を知らないんだ~と気に入り交際が始まりました。
そしてジョンは六歳の長男ジュリアンを残し前妻のシンシアと別れることとなりました。すると稀代の音楽パートナーのジョンを失ったのと、生まれたときから可愛いがっていた彼の息子ジュリアンの不幸にポールが、いたたまれなくなりました。そこで慰さめのため「Hey Julan」を作ったのです。
しかし、へイ ジュリアンではインパクトが足りないので、ジョンにヘイ ジュード『Hey Jude』にして「世界中の悩みをその肩に一人で背負い込むなよ」と歌っても良いかと問うと彼は消極的にもOKして、ジョン・レノンをも同時に慰める歌になったとのエピソードです。
ちなみにジョージ・ハリスンは「この曲は長するぎる」と言っていました。最後のオシマイ。長文、ここまでのお付き合い、ありがとう御座いました。