◎ 歌津ー三浦地所内ー馬場上城公園案内図 ◎

歌津震災復興と鎌倉殿の13人・三浦氏歴史周遊行
私の生家は旧歌津町(現南三陸町)の馬場という地名の由来になった地域にかつて鎌倉幕府の開礎になった三浦ノ大介平ノ義明の後裔で三浦ノ周防平ノ義種の弟が移封して来て「上城」(かみじょう)という「武将屋敷」を構えました。
時代がくだって江戸藩政期まで領地持ちの伊達藩の地侍でした。「地頭所」として組頭をまかされ地域で年貢の徴収もしていました。

そして侍屋敷の特徴として本丸の敷地の東西が
図のごとく東ノ曲輪「楠台」と西ノ曲輪「欅台賢所」(東西五郡松跡)「コゴウリノマツ」と侍の裃の肩ように左右が張り出しています。
これは中世から侍屋敷の縄張りをするときの決まり事、かつ仕来たりになっているからです。当地に住居を縄張りするときにかなり広い城域を確保して、本丸を中心に東ノ丸や北ノ丸に親類や領民が住ん住んでいました。
それらは明治期になり廃藩置県と数度の津波により親類意外は曖昧な関係になり、この震災(2011年3月11日)の災害後みな高台に移り住みました。
また五軒の直系の分家のうち名足の「向ノ妻」意外「上新家」・「大上屋」・「上屋敷」・「前上」とすべての家名に「上」(カミ)の字が付いているのが「馬場上城」内に居住した三浦氏の特徴でした。
【 馬場上城ノ三浦総本家】鎌倉~江戸・明治・大正・昭和・平成・令和の歴史

右の写真は東西「五郡松」(コゴウリノマツ)のうち三本が残る西側曲輪の松。右端の三又の松は樹齢六百年以上で鎌倉から移住した際に植られたと伝わる。
松の枝の右下の家屋は慶長四年に構築された二代目の屋敷で関ケ原の戦い後に建てられている。初期の屋敷よりひと回り小さく建てられたと伝わる。(京間の間口九間・一間が190cm )なので実質十間だった
初代は間口十二間で、その頃の屋敷門には金の紋章で三浦の標識があったと伝わる。撮影は昭和三十四年四月でこの記念写真の後に松は伐採された。
当日は大勢の人が集まりその様子を見守った。まず、下から十メートル位上の位置の三又の三本を先に切り、最後に直径百八十cm位の根元が切り離されました。すると地震のような地響きと共に倒れました。その倒れた幹に一番先に駆け登ったのが新宅の従兄弟・豊司君でした。
こうして多くの女性達が嫁入り先に憧れたという、馬場上城三浦総本家の象徴的な「五郡松」はその姿を永遠になくしました。ちなみに後にこの家にお嫁入りした八千代婆さんは、名足小学校の時に遠足と写生に来て、向かいの大下の祭り場に上りこの風景を絵に描いたそうです。
後に私も風景を復活したく、三度ほど三又の松の若木を植えましたが、どれも根付きませんでした。なので今度は欅を植えて欅台とします。したがってこれからのスターは欅木や楠木、銀杏、樫木、椎木で「五郡木」です。

さらにこの十年後の昭和四十四年一月十六日に当屋敷は、三代目の新築住宅を建設するために解体されました。
なぜ、江戸時代の建造物かというと、その屋下げをする前に私が家内の全調査をすると、脇差一振の発見と「オシラ様」及び神棚に古いお札が残り、そのうちの一番古い札に慶長五年と書かれてあったからです。
ちなみに「オシラ祭文」のオシラ様は、この津波のさい志津川の防災庁舎で遭難した名足の「向ノ妻」の毅君の生前の話では、元々は向ノ妻に有ったものとか、ある世代に向ノ妻が津波で流され、当家・上本家が預かっていたという。
古くから武家では戦・イクサの時に吉兆を占うのが慣わしで、本陣の中向には修験道で仕えていたらしい。
そのため我家が馬場に移り住む際に、その役職で中向に仕えるよう地元から入った側室さん家族を名足に置いたらしい。それが代々続き「向ノ妻」と言うらしい。
この『オシラ際文』については東北学院大学の三崎一夫先生が図説:『陸前のオシラサマ』と言う本を出版されておりました。
しかし、その中に当家のオシラ様の記述の漏れがあり、自分も在学中だったので現物・四体の「オシラ様」と、江戸時代から当家に伝わる年貢徴収の書状を持ち込み、先生に鑑定してもらい次回の増刷のさいに追加で載せて貰うようお願いしました。そして皆さんが期待して評判だった大判小判のザックザックは有りませんでした(笑)

上記の馬場上城二代目屋敷は、昭和四十四年一月十六日に、新住居の建築に伴い解体され、右の写真のような近代住宅に生まれ代わりました。
そのさい大量の残材が出るので、柱、梁などを製板して再利用をしました。反古された二代目の建物には建設当時、仙台藩のご禁制の欅の木材が多用されていました。
台所の「牛持柱」には直径七十cmの赤芯欅が「懸行」には直径50cmの白欅が遣われていました。
それらを再製板して新住宅では赤芯欅は「床の間」材に、白欅は玄関の「上がり框」の部材に遣われました。
しかし、これら新築三代目屋敷も平成二十三年三月十一日の、東日本大震災の津波に流され消失しました。建築から四十二年後のことで、それは鎌倉幕府から歌津の馬場に来て八百年続いた三浦家にとっては、韻を踏み平仄を合わせたような出来事でした。
流されるまで八百年間津波も火事にも遭遇していない、と云うのが先代からの言い伝えでした。そしていま新世代に向け復興事業が始まりました。
◎ 歌津ー三浦地所内ー馬場上城復興のアーカイブ ◎

2012年5月にまだ塩分が残る水田に「ひとめぼれ」の苗を植えてみました。すると間違いなく成長して稲が実りました。
そしてその秋の10月10日に収穫際を行い、稲をお供えに復興の仮建前式を行いました。そのさい近くにいた上新家の富子姉さんが、立ち会ってくれました。これで復興の第一歩を踏み出しました。
2020年7月29日に上城内北の丸・柚ケ原に仙台市花壇にあった仙台VIO技術研究所を移設する。
【三浦一族歴史顕彰会】から続く
(1):【馬場・「上城」総本家ノ系譜】江戸〜令和
(2):官位・伊達藩在地領主・【万太郎】江戸
(3):官位・伊達藩在地領主・【徳右衞門】江戸
(4):平民・【治郎左衞門】慶応〜昭和十八年
慶応三年生まれの治郎左衞門爺さんの代に
江 戸から明治に変わった。
(5):官職・海軍軍人・【徳治郎】明治〜昭和
名足漁協と名足小学校の設立功労者
(6):官職・陸軍軍人【捨治郎】大正〜昭和
旧歌津町民族資料館と平成の森公園・払川ダム建設の歌津町議会提案者(町議会議員)
(7):会社員・阿部長商店【一郎】昭和〜令和
阿部長商店志津川工場創業二代目工場長 三浦一族歴史顕彰会 初代会長
(8):官職・仙台国立病院職員【孝子】昭和〜令和
(9):官職・総務省・郵政事務官【二三男】昭和〜令和
VIO科学技術・英文学・経済学研究者 作家 Don・Vito・Fumione・映像:映画総監督
筆者(9)【二三男】は(7)長男【一郎】ノ弟で本丸天守台を復興造営中
馬場「上城」かみじょう「総本家」直系五軒の分家名
「向ノ妻」むけのつま(名足)「 上新家」かみにいや「 大上屋」おおかみや
「上屋敷」かみやしき「 前上」まえかみ
馬場「親類」「馬場屋敷」ばばやしき「 新宅」しんたく「仁平床屋」じんぺいとこや「中新家」なかしんや
名足「中向」なかむかい「本陣」直系の馬場在住二軒の分家名:「 中」なか「 大下」おおした
原則:歴代当主は長男・長女のみ掲載
結果、思わぬ物語になりました。欧米ではこう言うのを「SAGA」(家伝物語)と言い、ひとつの文学形式でもあります。ちょうど我が家の歴史もこの震災と時代の変遷で現状「上城」跡も更地に戻り、ようやく封建社会の終焉を感じます。
そして現地「上城」地域は今住む人もなく、生命工学の研究や聖書研究、三浦家の歴史顕彰の地・撮影スタジオに生まれ変わりました。新たな時代は聖書に基づいた地域社会になるでしょう。そのようなコミュニティに感心のある方を歓迎します。それら新時代の話しを(ファンクラブ)として、これからも綴って行きたいと思います。
奇しくもこの「SAGA」を書始めると英国のエリザベス女王の薨去と重なりました。2022年9月 吉日
ここまで読んで頂き光栄です。いずれこれらの物語を要望に応え、映画化やドラマ化、ミュージカルも有りで、
「震災後の地方創生に活かせれば最高だなぁ」と思っています。
注 (1)〜(9):No.は身代ではなく、文献上の通し番号です。
ナウマン発見の皿貝貝塚→歌中・南三陸民族資料館→三嶋神社→平成ノ森公園→歌津魚竜館→館崎城跡→泊崎→馬場上城公園→名足中向本陣跡→田ノ浦梶原館神社から国道45号線に出て左の石巻方面に戻るか右の気仙沼方面に行くか考古学や歴史の週遊が出来るコースです。山ノ手には田束山や樋ノ口の大杉、穴滝・蜘蛛滝や払川ダムも有ります。
◎ 震災後伊里前小学校に、平成天皇が見舞われ御制なされて「歌会始」で詠まれた歌碑も建立の予定。
◎ 御制 津波来(こ)し 時の岸部は 如何なりしと 見下ろす海は 青く静まる 平成上皇陛下
研究と芸術の三浦地所「殿堂の建設には設計者のファンタジーが必要である」 寺田寅彦
皆様方のご来行を「鎌倉武士団の末裔」が心より熱烈歓迎でお待ちしております。
『神と和解の栄光の城=上城』
持株会社:任意団体・上城撮影スタジオ:【三浦地所管理事務所・MIURA ESTETO ECONMIC TERRITOERY】
歌津・馬場 上城 三浦一族歴史顕彰会(ファンクラブ) 作家 Don・Vito・Fumione
◎ 馬場上城・欅台賢所の造営祝いに書家・僭越四国先生寄贈の掛軸
馬場上城・北ノ丸 柚ヶ原 コスモス企画 仙台VIO技術研究所・歌津支所

コスモス企画・仙台VIO技術研究所
基礎生命科学 (生物学・分子生物学・発酵と代謝)
海洋生物 (応用微生物・抗生物質)
食品科学 (脳内物質・認知症) 人工蛋白質製造 世界食糧計画
自然科学(生物化学・抗生物質)地球環境の循環と代謝作用
社会科学(経済学・経営学)グローバル経済の循環と代謝作用
災害医療 東北大学災害科学国際研究所
生命科学 コスモス生命科学研究所 宇宙生物学
自然史博物館 南三陸町民俗資料館 全地球海洋生物学研究
地震・津波 (プレートテクトニクス)
SDGs CO2削減 (Co2補食細菌=タンパク生成)環境経済学
エネルギー問題 (レイザー核融合研究)
聖書研究 ヨハネの黙示録

君香デオドラント製造販売 広告:ネーミングライツ
新型コロナ対策研究 敗血症対策研究
衛生・健康・免疫力向上対策3D素材科学
新型コロナ関連:嗽液製造売
(ボリフェノ-ル由来対策物探索)
真菌・細菌・ウィルス・アレルギー・敗血症対策質
【WHO推奨】『セルフメデケーション』
コロナ対策・発展途上国での衛生観念向上へのNPO活動
(1)ウガイ液の寄贈
(2)コスモスコロナ石鹸の寄贈
(3)本草薬:ポリフェノール・サポニン含有薬品の研究
(4)コロナ用ハーブ酒製造販売
(5)ワイン/ビール/ウィスキー
10000円サポート=お米5Kg進 研究補助・寄付金ネーミングライツ募集
科学(Science) 健康(Health) 藝術(Art)・SHA READYFOR サポターフェロー制度
◎コスモス企画 仙台VIO技術研究所・歌津支所 & 教会 付属図書館

写真は仙台市花壇にあった研究室付属の図書室を、2020年7月29日に南三陸町の現地に移したものです。
発足は1999年8月8日で、第一作目の『風に吹かれて』を出版した時期です。
本の数が多いので仙台と二分するしかなく、約半分の二千冊が南三陸町に移り、そして二千冊が仙台に残りました。これでも引っ越しのたびに古本に売りに出し1/3位が残りました。
ハーバード大学を作ったジョン・ハーバードが、ニューカレッジに英国から持ち込んだ時の蔵書が約400冊だそうですが、当柚ケ原の図書館は2000冊でその5倍以上です(笑)
今は仮設ですがこれからもっと揃え、皆様に利用していただけたら本望です。まだ未整理の分が残ってますが、時間をかけて整備して行きましょう。
※国連(SDGs被災地復興研究・災害ケースマネージメント)と(地球災害考古学研究センター)仮称の誘致

◎ 人も物も出会いがなければ何も生まれず、その意味で大勢の方々との巡り合いや、自分の人生を導いてくれた書籍や聖書にちょっとでも感謝の意を示し、更に東日本大震災の被災地であり、復興と課題先進地であるこの三陸で、その解決策を思考するに多くの方々が、参考閲覧出来る図書館の元となる書籍を提供出来て光栄です。
「費やされた時間は 建築物の筋交いのように 見えないところで文章を 強靭にしている」 牟田都子
「エホバを畏るは知識の本なり」 聖書
☆ 柚ヶ原教会 クリスマス&復興祝と感謝祭(正月)
ナウマン発見の皿貝貝塚→歌中・南三陸民族資料館→三嶋神社→平成の森公園→歌津魚竜館→館崎城跡→長須賀海浜公園→泊崎→馬場上城公園→名足中向本陣跡→田ノ浦梶原館神社から国道45号線に出て左の石巻方面に戻るか、右の気仙沼方面に行くか考古学や歴史の週遊が出来るコースです。
山ノ手には田束山や樋ノ口の大杉、穴滝・蜘蛛滝や払川ダム→中在の歌津仇討物語→源ノ頼朝の侍女・亀ノ前の墓→頼朝の愛馬・池月の墓も有ります。さらに
◎ 伊里前小学校に震災時、平成天皇が見舞われ御制なされて翌年の「歌会始」で詠まれた歌碑も建立の予定。
◎ 御制 津波来(こ)し 時の岸部は 如何なりしと 見下ろす海は 青く静まる 平成上皇陛下
新たな復興ドリームの始まりで観光インフラです。
皆様方のご来行を「鎌倉武士団の末裔」が心より熱烈歓迎でお待ちしております。
最後に思うこと
作家三浦二三男として自家の歴史を秦ノ始皇帝、またそれ以前としてシルクロードを多分ユダヤ人の商人や、ペルシャ人のキャラバン隊の用心棒として、ユーラシア大陸を横断して極東の三浦半島の鎌倉から、さらに歌津まで渡って来であろうローマ兵の末裔の航跡を思うと感慨深いものがあります。
重ねてその騎士から武士に引き継いだであろう伝統文化や、精神文化も鎌倉武士そのものとして花咲かせた武家集団の心意気を、この津波に遇うまで八百年も保って来たことに尊敬の念を持ちます。ぜひ、観光インフラが整ったさいには歌津を訪ね頂くことを期待します。
最後にその鎌倉武士団とは、三浦一族そのものです。よろしくお願いいたします。
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歌津・馬場 上城 三浦一族歴史顕彰会 会長三浦一郎