☆ 1978年12月15日 ☆ 多賀城・東北歴史民俗資料館発足記念事業 ☆

◎   日本の船舶発達史の一形態・三陸の「合木舟」の製造と帆走実験の模様    ◎

1978年12月15日歌津港沖「合木舟」の完成披露 河北新報より
1978年12月15日歌津港沖「合木舟」の完成披露 河北新報より

この遺跡発掘の成果を後世に残す為の施設が1974年創立の現地にある「東北歴史博物館」です。実はこの博物館の初期を構成するにあたり父と私も関わっていました。

 

それは日本の船舶構造の発展進化の、歴史的経過をみる中で、歌津の「合木舟」(カッコブネ)が「丸木舟」から進化が進み「早波舟」(サッパブネ)※に至る途中形態の伝統的和舟のひとつである事を解明したからです。

 

※「早波舟」は現在の沿岸部で使われているプラスチック船の原型で、こちらも父と私の発案で歌津の南三陸民族資料館に展示されています。(震災後に修復してメンテナンスをしてくれた方が泊浜の岩石さんで、鎌倉から一緒に歌津に来た三浦水軍の長)

 

そして、この「合木舟」を再現しょうとなり実際に舟を作り帆走実験をしたのが写真の物です。試験の後、昭和53年12月18日に博物館に納入登録されました。

 

受注元は旧歌津町港の船大工渡辺保さんが造船しました、この方は父の母方の叔父さんでした。この時、実際に「帆走実験」をする事を提案をしたのが、かく言うわたしです。 おかげで河北新報が取材してくれて記事が残りました。これも父との連携で成し遂げた、東北歴史博物館創立時での研究成果でした。

 

このとき作った舟は今も博物館の収蔵庫に保管されてます。この小型帆船の「舵」は分家「上新家」からこの際に現物寄贈された物です。更にこの時期の博物館の案内パンフレットに、我が家の母の名を取った「八千代丸」という舟(早波舟)の写真が使われました。この八千代丸の造船にも我が家の細やかなエピソードがあります。

 

と、いうような多賀城発掘や博物館創成の頃を縷々述べましたが、南門の建築にはわたしの『風吹かれて』出版後キャンペーンをしている時期に、引き続き発掘調査をしていた東北大学が、第二期の正門跡を発見しました。しかし、当時は専門家や歴史愛好家くらいしか関心がありませんでした。

 

されどわたしは創作終了後も多賀城に愛着をもち、パーティーや議員さんの集まりなどで、多賀城の重要性などを尋ねられ、そのたびごとに何度も出ては消える、本気度が不明な正門の再建や「沖の石」周辺の再整備を提案していました。それが今回実現したわけです。

 

また、「沖の石」については取材初期に、近所の方々に「末の松山」との関連も尋ねられ、その内この辺には、多賀城見学の「中国人の観光バスであふれようになる」と断言していました。その時のバス駐車場構想はまだですが、このコロナ以降、仙台港に入る豪華客船などの周遊地になります。

 

更にその周遊の足を「前九年ノ役」・「後三年ノ役」での多賀城がはたした役割のことや、また「義経の平泉」関連と「鎌倉殿の13人」の歴史で、歌津まで足を伸ばして頂くと、観光客の満足度も上がることと思います。ぜひ、今後の検討課題にして頂ければ光栄です。

 

先月もお知らせした「三浦二三男出版記念会文庫」の著作ラインナップ数が1冊の歌集や2本の映画脚本を含む23作品を越えました。これは中学高校時代から師と仰いだ「阿川弘之先生」の全集が全20巻なので、なんとか越えることが出来ました。

 

更にまだ書きたいテーマが有り進行中ですが次の30巻に向けての準備がほぼ済みました「乞うご期待」です。